貝殻

Oさん夫妻が休日に五歳の長女を連れて海に出かけた。
海水浴のシーズンではなかったので水には入らなかったが、長女は海を間近で見るのが初めてで大はしゃぎだった。
波打ち際には貝殻が打ち上げられていて、ほとんど割れているものや欠けているものばかりではあったものの、それらの中から形のいいものや色がきれいなものを長女が拾い上げて大切そうに持ち帰った。
家に帰ってからそれらの貝殻は空き瓶に入れてリビングに飾られた。
翌日の夜、Oさんが夜中にふと目を覚ますと布団の中に長女がいない。
いつも親子で川の字になって寝ているが、いつのまに長女は布団を抜けだしたのか。トイレだろうか。それまでは夜中にトイレになど長女ひとりでは怖がって行けなかったのに、もうひとりでも大丈夫になったのだろうか。
とは言え、寝室の前の廊下には明かりが点いていない。いくら一人でトイレに行けるようになったとしても、明かりを点けずに行くのはおかしくはないか。
……一体どこに行ったんだ?
少し心配になったOさんはトイレに行ってみたものの誰もいない。じゃあどこだ、と廊下を通ってリビングの方へ向かった。
ゴリッ、パリッ。
変な音が聞こえた。リビングの中からだ。
リビングの明かりを点けると長女の小さな後ろ姿が見えた。
壁に向かって立って何かしている。――明かりも点けずに何をしてるんだ?
名前を呼びながら近づいたものの、長女は振り向かない。
バリッ、ゴリゴリ、ガリッ。
何か硬いものが砕けるようなこもった音がする。
一体何をやってるんだ、と横から長女の顔を覗き込むと、その口元が赤く染まっていた。
ぎょっとしてよく見ると、長女が手に持っているのは海から拾ってきたあの貝殻だ。
それを握ったまま口を動かす。噛みしめるたびにガリガリと硬いものを噛み砕く音が聞こえる。
……貝殻を食べてる?なぜ?いや、理由はともかくとしてこれはまずい。
「やめなさい!」
長女がもう一つ貝殻を口を運ぶのを力づくで抑えつけたが、長女はぼんやりとした視線を泳がせたまま口を動かし続ける。
持っている貝殻を取り上げ、口の中の貝殻も吐き出させようと口元をぐっと掴んだ瞬間。
「邪魔すんな!」
低い怒鳴り声がした。
長女の口からではない。大人の声。背後からだ。
はっと振り向いたもののそこには誰の姿もない。誰の声だ。
視線を戻すと長女は口を動かすのをやめて力が抜けたように座り込んでいる。
肩を掴んで揺すると、長女はやっと目が覚めたように気が付き、口が血まみれなことに気がついて泣き出した。
口をすすがせてみるともう出血は止まっていたので翌日病院に連れて行ってみると、口内の傷は幸い大したことはなく、少し欠けた歯もいくつかあったものの、欠け方は小さい上に乳歯なのでそれほど影響はないだろうということだった。
なぜあんなことをしたのか聞いてみても、長女は全くその時のことを覚えていなかった。気がついたら口が血だらけで痛かったのだという。


結局長女がなぜ貝殻をかじっていたのか、あの怒鳴り声がなんだったのかはわからないままだが、Oさんはすぐに残りの貝殻を捨てた。