瞼の裏

ある夜、大学生のRさんはベッドに横になり瞼を閉じたところで、妙なものが見えることに気付いた。
瞼を閉じるといつも、暗い中に大小の曖昧な点や図形が無数に現れては消えていくのが見える。ところがこのときはそうした無数の明滅の隙間に、人の顔が見えた。
不定形の光が点滅しながらゆっくりと動くその隙間に、灰色の男の顔が小さく、点滅せずにはっきり見える。
見覚えのない老人の顔だ。こちらを見ているような、どこか遠くを見ているような、そんな顔をしている。
なんでこんな変なものが見えるんだろう、夢だろうか。Rさんは一旦瞼を開いて、暗い部屋の中を見回した。
まだ自分は眠ってはいないようだ。夢ではない。
もう一度瞼を閉じると男の顔はもうどこにもなかったので、そのまま眠った。
男の顔はその後も間を置いて何度も現れた。最初に見た時は寝るときだったが、昼間に見えたこともあり、時間はまちまちだった。
いつも同じあたりに、同じ角度で見える。動くこともなく、言葉を発することもない。近づいてきたり遠ざかったりすることもない。
一度瞼を開くと次に閉じたときにはもういなくなっている。
最初のうちは驚いていたが、特に変化があるわけでもないし、他に悪いことが起こるわけでもないので、やがて気にしないようになった。現れてもすぐ瞬きして消す。


その後、Rさんは大学を卒業して大阪で就職した。
職場で知り合った男性とやがて付き合いはじめ、その彼と一緒に温泉旅行に行ったときのことである。
旅館の部屋に荷物を下ろしてから、二人で大浴場に向かった。女湯と男湯に別れる廊下のところで、男湯から出てきた老人とすれ違った。
その瞬間、Rさんは息を呑んで立ち止まった。
あの人だ。瞼の裏に時々出てくるあの顔をした人が、今眼の前にいる。
どうした、知ってる人? 彼氏にそう尋ねられたが、答えようがなかった。声をかけるのも躊躇われて、Rさんは呆然とその老人の背中を見送った。
それ以来、瞼の裏にあの顔は一度も出てきていないという。

指先の埃

Mさんが自宅で仕事中のこと。
パソコンに向かってずっと作業をしていたが、肩こりがひどい。同じ姿勢で画面を見つめ続けているから目と肩がつらい。
一時間に一度くらいは立ちあがって体を動かすようにはしているのだが、それでも締め付けるような痛みが消えない。
その日何度目かの休憩中、左手で両目を押さえながら右腕を上に伸ばして肩を回していた。
すると右手の指先がざらりとした物をかすった。
なんだと思って見上げたがそれらしきものがない。
天井は立ち上がって腕を上げてもまだ届かないし、壁や家具も手の届く範囲にはない。動くものは自分だけだ。
何に触れたのか、よくわからない。
右手を見ると三本の指先に白く埃が付いている。埃っぽいものに触れたようだ。
そんなに埃っぽいものがこの部屋にあっただろうか。掃除はそれなりにしているはずなのだが。
おかしいなあ、と思いながらコーヒーでも入れようかと立ち上がり、もう一度真上を見ると、天井にうっすらと筋がついているのがわかった。
天井はたまにしか掃除しないから、表面を薄く埃が覆っているのだろう。そこに三本、指でなぞったような跡があった。
再び右手に視線が向いた。指先の埃は天井を触って付いたものなのだろうか。
しかし腕の長さが二倍以上に伸びない限り、座った体勢で天井に指が届くはずがない。
あの一瞬だけ、腕が伸びていたのだろうか?
それ以来Mさんは、自室で手を上に伸ばすときはつい視線も上に向いてしまうようになったという。
また天井まで手が伸びたりしますかと聞くと、Mさんは笑って首を横に振った。

本家の蔵

Nさんの実家の近所には祖父の実家があり、Nさんの家族は本家と呼んでいた。
Nさんの両親は共働きで、祖父母も早くに亡くなったので、日中は家に人がいなくなる。そのため、Nさんは小学生の頃は学校から自宅に直接帰らず本家に行き、両親の仕事が終わるまで面倒を見てもらっていた。
だから放課後に友達がNさんのところに遊びに来るときも、自宅ではなく本家で遊んだ。
本家は江戸時代から続く大きい農家で庭が広く、母屋の他に大きな納屋ともっと大きい木造の蔵があった。納屋と蔵は危ないものや壊れ物が置いてあるから入らないよう普段から言いつけられていたので、友達とは母屋か庭で遊んでいたのだが、そうしていると時々奇妙なことが起きた。友達がいつの間にかひとりいなくなるのだ。
友達が一人だけ来たときは何も起きない。
しかし二人以上の友達が一緒に来ると、遊んでいるうちに一人の姿が見えなくなる。庭や母屋や家の周囲を探してもいない。本家の人に言うと、あそこかなと言って蔵に入っていく。
いなくなった友達は毎度決まって蔵の二階にいた。埃っぽい家財の奥に一人で座り込んで調子っ外れの知らない歌を唄っている。毎回同じ歌だった。
声をかけると初めて自分がどんなところに座っているのか認識するようで、不思議そうに周囲を見回す。本人はずっと母屋の中にいたつもりだという。知らない子に誘われて母屋の奥の座敷に入り、そこで一緒に歌を唄っていたはずだという。
そんなことが何度かあったので、本家の人からもあまり友達をこの家に呼ばないようにと注意された。本家の人にもなぜそんなことが起こるのか見当がつかないという。当時、本家に子供と呼べるような年頃の人間は住んでいなかった。
Nさん自身も本家で知らない子の姿を見たこともなければ奇妙な体験をしたこともない。友達だけが変な目に合っているのが不思議だった。
友達の間でもあそこの家には何か出るぞという話が広がり、小学三年生の頃にはNさんのところに遊びに行こうとする者はいなくなった。


本家の蔵はNさんが大学を出て就職した年に火災で焼け落ちて今はもうない。

バニラ香

二年ほど前、高校の教室でのこと。
午前の休み時間、ふっと甘い匂いが漂うのを教室にいたほとんどの生徒が感じた。
バニラのような甘い香りだ。
誰かがお菓子を食べている程度では、教室じゅうに匂いが充満するのは考えにくいし、誰もそれらしきものを持っていない。
部屋の外から流れてきた匂いかとも思ったが、廊下に出ても、窓を開けても教室の外には同じ匂いは感じられない。
何の匂いだろうね、と話していると、教室にいたある女子生徒がこんなことを言い出した。
この写真から匂いしてる。
その生徒は休み時間に入ってから、スマートフォンで先日撮った写真を眺めていた。そのうちの一コマを開いた途端、教室に甘い匂いが漂いはじめたというのだ。
タイミングがたまたま合っただけじゃないの、と他の生徒が言うので女子生徒はもう一度その写真を開いた。
友達と遊びに行ったショッピングモールの屋内で自撮りしたもので、二人がアップで写っている。画面に不審なものは見当たらない。
教室がざわついた。
確かに、再びバニラの香りが漂ってきたからだ。
画像を閉じると匂いは薄れていく。確かに写真と匂いは連動しているように思える。
何それ、普通じゃなくない? 一人の生徒がそうつぶやいた。
そこでチャイムが鳴り、次の授業になったのでその日はそれきり有耶無耶になった。

 

次の日には、もうその写真を見ても匂いが漂うことはなかったという。

変な獣

栃木でスーパーに勤めるHさんの話。
夜十一時頃、友人のEからSNSを通じてメッセージが来た。

今変な獣ひいたんだがw

続けて写真が貼られていたが、開いても真っ暗で何が写っているか全くわからない。

なんぞこれw

そう返信したが、それ以上Eからの返事はなかった。
翌日、仕事が終わった後に別の友人から連絡が来た。Eが昨夜から帰宅しておらず、連絡もつかないという。
昨夜なら、ちょうどEからSNSでやりとりしている。あれからどこへ行ったのだろうか。
そもそも、あの写真はどこで撮ったものなのだろう。獣をひいたというからには車で走行中だったのだろうが。
真っ暗な写真で何も見えなかったはずだが、もう一度よく確認してみようとHさんはスマホSNSアプリを開いた。
ところが――。
ないのだ。
昨夜、Eとやり取りしたメッセージと写真が見当たらない。Eとのやり取りは一週間ほど前のものが最後になっていて、昨夜のものがない。
仮にEがやり取りのあとで文章や写真を消去したとしても、Hさん側のスマホでは一度見たメッセージや写真はHさんが消さない限り残る仕様のはずだ。
まるで昨夜のやり取り自体が存在していなかったかのようだが、Hさんにはやり取りの記憶がはっきりとある。
夢だったのだろうか。
わけがわからなかった。

 

翌週に埼玉でEと彼の車が発見された。車内で練炭を焚いており、手遅れだった。
遺書は見つからなかったという。

影車

Fさんが中学生の長男を塾に迎えに行った帰り道のこと。
いつも通る道を車で走っていると、脇の住宅の陰から黒いものがぬっとはみ出してきた。
車が出てくるのかと思って減速したところ、黒いものはそのままゆっくりと路上に出てきた。
夜だというのにライトを点けていない。運転手は何を考えているんだ、と呆れたものの、すぐに勘違いに気付いた。
大きさだけは乗用車くらいあるが、ただの黒いかたまりで、タイヤも窓もない。車ではない。動物のようにも見えない。
そのままそちらに近づいていくのも躊躇われて、Fさんは車をいったん停めた。しかしその黒いなにかは次第にこちらに近づいてくる。こちらのライトが当たってもやはり真っ黒なかたまりにしか見えない。
こちらに近づいてくる。逃げようと思ったときにはもう目の前だった。
何だあれ、という長男の声と同時にバックギアを入れたが既に遅く、まっすぐぶつかってきた。しかし衝撃はない。
煙のように手応えがなく、ただそれが通り抜けていくときに一瞬車内が真っ暗になった。
すぐに街灯の光が差し込んできてはっと後ろを振り向いたが、黒い何かはもう見えなくなっていた。
直後、Fさんと長男は同時に叫んだ。
えっ、臭っ!!
車内には焦げた魚のようないやな臭いが充満していた。たまらずに窓を開けたが、臭いは二日後くらいまでしつこく残っていたという。

丸石

Eさんは大学三年生の秋に研究室の人間関係トラブルで精神的に追い詰められ、それが原因で体調を崩して休学し、茨城の実家に帰った。
何をする気力も湧かず、地元の友人に会う気にもならず、家でゴロゴロするかせいぜい近所を散歩するかという起伏のない日々をしばらく続けた。
散歩はいつも近所の住宅地を一周りするのがお決まりのコースだったのだが、ある日ふと途中で思い立って、いつも行かない方向に足を向けた。高校生までの間も行ったことのない地区だ。出身地なのに知らない街に入り込んだようで、新鮮な気持ちで進んでいく。
住宅の間の道路は次第に細い路地になって、左右にずっとブロック塀が続いていた。そのまま歩いていくと左右の塀が途切れて、墓地に出た。
墓地のむこうには立派なお寺の高い屋根が見える。こんなところにあんな大きなお寺があったのか、知らなかった。
誰もいない墓地を横切るとすぐに参道になっていて、立派な本堂の正面に出た。
本堂の扉は固く閉じていて、周囲にも人の姿はない。Eさんは本堂の前で何となく手を合わせて立ち去ろうとした。
すると足元にある石ころに目が留まった。まるで石と目が合ったようだった。
特別珍しい見た目をしていたわけではない。川原に転がっているような丸い、野球ボールくらいの石だ。稲妻のような白い筋が端のほうに走っている。
気まぐれでEさんはその石を拾い上げた。どういうわけか、そのままその石を持って帰りたい気持ちになった。どこが気に入ったか自分でもはっきりわからないのだが、とにかくそのままずっと持っていたくなった。
しかし持って帰っても何に使うわけでもないし、お寺のものを勝手に持ち帰るのも気が引ける。
名残り惜しかったが、足元に石を戻して境内を出て、まっすぐ家に帰った。来た道を戻りながら何度かあの石のことを考えた。
病んでいるせいで今までとは違うものが好きになったのだろうか。そんなことを思いながら家の玄関を開けて足を踏み入れたところで、何かが爪先に当たって転がった。
丸い石だ。端のほうに白い筋が走っている。
先程寺の境内に置いてきた石に間違いない。
思わず後ろを振り向いたが誰もいなかった。石が勝手についてきてしまったようにしか思えなかった。Eさんが石を気に入ったように、石のほうもEさんを気に入ってくれた。そんなふうに思ったEさんは石を拾い上げて玄関に飾った。


それからEさんは次第に調子を取り戻し、次の春から別の研究室に移って復学した。
今でも丸い石はEさんの実家に飾ってあるという。