路地もの

Fさんの職場の近くに細い路地があり、職場の三階にある休憩スペースの窓から見える。Fさんは休憩のたびに何となくこの路地のあたりを眺めるのが習慣になっていた。窓際のソファーに座って窓の外に視線を向けるとちょうどそのあたりが見えるのだ。
ある時、気がついたことがあった。その路地から時折黒っぽいものがスッと出てくる。ところが何が出てきているのかがはっきり見えない。
蚊柱をもっと濃くしたような、煙の塊のようなぼんやりした何かで、それが路地の奥からしみ出すように現れる。そして通りかかった人のすぐ後ろに付いていく。時には密着するようにまとわりつく。
付いていかれている本人も、周囲の通行者も特に気にしている様子はない。本人たちには見えていないのだろうか。
Fさんも何度かその路地の前を通ったことがあったが、そんなものを見たことは一度もなかった。その場にいると見えないだけで、実はその時も同じものが出てきていたのかもしれない。
あの何かに付いてこられるとどうなるかはわからない。悪いことがあるかもしれないし、何もないのかもしれない。
しかし気付いてしまったからにはもう気にしないようにすることもできない。それ以来Fさんはその路地のほうを見ないようになったし、路地の前も決して通らないのだという。

雨男

Sさんが高校生の頃、お父さんの運転する車で出掛けた帰りのことだという。
急に大粒の激しい雨が降ってきて、ワイパーを動かしても前が見えにくいほどの状況になった。するとお父さんはあれっ、と声を上げて車を道端に停めた。
お父さんは雨が吹き込むのも構わずに窓を開けて、すぐ傍を歩いていた男に声をかけた。
――おう久しぶり、ひどい雨だな、乗っていくか?
男はすぐに後部座席に乗り込んできた。Sさんの知らない大人だった。彼は傘を差していなかったのでずぶ濡れだ。
お父さんはSさんに紹介しようとしないし、男も自己紹介しないので誰なのかわからないが、とりあえずSさんがこんにちはと挨拶すると男は無言でうつむくように会釈した。元気がないというか、陰気な印象だった。
二人の会話からすると男はどうやらお父さんの同級生らしかった。会話といってもほとんどお父さんから一方的に話しかけているだけで、男は「ああ」「うん」くらいに相槌をうつだけで、それでもお父さんは気にせず饒舌に語りかける。昔からこういう関係なのだろうかとSさんは助手席で黙って聞いていた。家でのお父さんは口数が多い方ではないので、友達に対してはこんなに話すのかと意外でもあった。
少し走ると男が「ここまででいいよ」というのでお父さんは車を停めた。その頃には雨は小降りになっていて、男は後部ドアから降りるとすぐに路地に入って見えなくなった。
男が降りるとお父さんはまた普段のように口数が少なくなった。
さっきの人、友達? Sさんがそう尋ねると、お父さんはうん、いやまあ――と曖昧な返事をした。
そして少し黙り込んだ後に、ぽつりと言った。友達のはずなんだけど、どういうわけか思い出せないんだ。誰だったかな。
なにそれ、そんなに親しくなかった人なの? と聞くとよくわからないという。
雨の中を歩いている姿を見てすぐに誰だかわかったし、車に乗せている間はあれが誰だか疑いもしなかったのに、あいつが降りた途端によくわからなくなった。いつの友達だったんだろう。
お父さんはしきりに首をひねっている。
そんなのおかしいでしょ、とSさんが後部座席を振り返ると、シートはずぶ濡れの男が座っていたのが嘘のように乾いていた。

夜犬

Kさんが転勤のため茨城から栃木に引越した。
引越して二ヶ月ほどした頃、アパートの大家が来てこんなことを言う。Kさん、犬飼ってたりしてません?
すぐに否定した。ペット禁止のアパートだし、犬など数年来触ってすらいない。
大家の言うことには、他の住人からKさんの部屋で犬の声がうるさいと苦情が出ているという。
そんなことを言われても心当たりはない。潔白を証明するためにKさんは大家を部屋に入れて、犬などいないことを確かめさせた。
大家もそれで納得したようで、何かの間違いでしょうということになった。もう少し詳しい話を聞いてみると、犬の声は夜中に聞こえるという。
夜はKさんも部屋にいるが、犬の声など聞いた覚えがない。本当にそんな声が聞こえているのだろうか。おかしな人の妄想ではないのか。


そんなことがあってまた少し経った頃、部屋で寝ていたKさんは夜中に目を覚ました。壁の時計を見ると午前三時過ぎ。
すぐまた目を閉じたものの。何か部屋の中で物音がする。床の上をチャッチャッと何かが歩き回っている。
これが例の犬か、と思った。視線を横に向けると、暗い部屋の中を中型犬くらいの大きさの何かがさかんに行ったり来たりしている。暗いせいでよくわからないが、四足の動物なのは確かなようだ。どこから入ったのだろう。
聞こえるのはフローリングを爪がひっかくような足音なのだが、床にはカーペットを敷いている。直接フローリングの上を歩くような音がするのが奇妙だった。
もっとよく見ようと思って体を起こすと、驚いたのだろうか、その動物はテレビの方に飛び込むようにして消えた。
すぐに部屋の明かりを点けたKさんの目に留まったのが、テレビの前に置いたサボテンの鉢植えだった。
これは引越し後に友人から貰ったものだ。大して世話をする必要がないし部屋の彩りとして置いておくといいと友人が言うので、Kさんはそれをテレビの前に置いたまま、友人の言葉通り世話もせずにいた。改めて見てみると短いトゲがびっしり生えた感じが犬っぽくないこともない。
犬はこの鉢植えに飛び込んで消えたように思えた。犬の話を聞いたのも鉢植えを貰ったのも引越し後のことだ。
Kさんは鉢植えに向かって、夜は静かにしてくれと声をかけてから寝た。


その後Kさんはサボテンの世話の仕方を調べて、時々窓際で日に当てたり風に当てたりといくらか世話をするようになった。そのおかげなのかどうかは不明だが、犬に関する苦情はそれ以来聞いていない。

定期テスト

高校の定期テスト中のこと。
生徒たちが答案と格闘している前に、監督役の先生がいる。五十代半ばの社会科の先生だ。
先生は特に生徒たちに注意を向けるわけでもなく、本を読みながらじっと座っていた。
そこへ前のドアからスッと誰かが入ってきた。それに気付いた生徒たちが視線を上げると、入ってきたのは監督役の先生だった。
もともと黒板の前に座っていた先生ももちろんそのまま座っている。顔から服装まで全く同じだ。
同じ先生が二人になった。
生徒たちは狼狽えた。しかしテスト中でもあるし、騒ぎ立てるのも気が引ける。
後から入ってきた先生は落ち着いた足取りで机の間を進んでいく。こちらのほうがよほど試験監督らしい動きだ。生徒たちは目を合わせるのも気味が悪いので顔を伏せた。
元からいた先生はずっと動かずに本を読んでいる。何が起きているのか気付いていないのだろうか。
後から来た先生は教室を一周するとそのまま前のドアから出ていった。
テストに集中していた生徒はこのことに気付かなかったようで、二人目の先生を見た者はクラスの半数ほどだった。
後から気付いたことだが、二人目の先生が入ってきた時も出ていった時も、ドアを開け閉めする音を誰一人聞いた覚えがなかった。


あれはいわゆるドッペルゲンガーというやつか、もうすぐあの先生死ぬんじゃないか、などという噂が生徒の間に囁かれたが、それが現実になることはなく先生は定年まで無事に勤めたという。

みっちょん

Uさんの小学校の同級生にYちゃんという子がいた。
UさんとYちゃんとは同じグループで遊ぶ友達だったが、Yちゃんの話の中にときどき、グループにいない子が出てくる。
Yちゃんはその子のことをみっちょんと呼んでいた。同じクラスにも他のクラスにもそういう呼び名の子に心当たりはない。
みっちょんって誰? と尋ねるとYちゃんはよく知らないという。どこに住んでいるのか知らないが、よく家に来るので二人で遊んでいるのだという。Yちゃんはあまり口数が多いほうではなく、口がうまい方でもなく、みっちょんについての説明もあまり要領を得たものではなかった。だからあまり詳しく聞き出すのも骨が折れるので、Uさんを始めとしてグループの誰もがそれ以上その話を掘り下げようとはしなかった。
そんな話を初めて聞いたのが五年生のときで、六年生のときも時々Yちゃんはみっちょんの話をした。しかしグループの誰も特にみっちょんに興味を持つことはなく、Yちゃん以外にみっちょんに会ったという者もいなかった。


そうしてUさんたちは中学生になった。
すると驚いたことに、Yちゃんは小学生の頃とは打って変わって快活になった。授業でもそれ以外でもハキハキと進んで発言するようになり、何事にも積極的になった。Yちゃんは次第に友達グループどころかクラスの中心的存在にもなっていった。
そしてもうひとつの変化として、みっちょんの話をしなくなった。中学生になってから一度だけ、UさんはYちゃんにみっちょんのことを尋ねた。
最近もあの子と遊んでるの? あのみっちょんとかいう子。
Yちゃんは不思議そうな顔をして言う。誰それ? 他のクラスの子?
驚いたことにYちゃんはみっちょんのことなど全く知らないという。
知らないならいいんだけど、とUさんは誤魔化した。もしかしたら最初からみっちょんというのはYちゃんの作り話だったのではないか。
ただ、中学生になってあまりにYちゃんの性格が変わったことに少し違和感があったのも事実だった。みっちょんのことを話さなくなったことと、性格が変わったことに関係はないだろうか。


中学一年生の秋頃、Uさんは気まぐれに本棚から小学校の卒業アルバムを取り出した。何の気なしにページをめくっていて、ふと目が止まった。
Yちゃんの写真だ。Yちゃんはこんな顔をしていただろうか。
現在のYちゃんだけでなく記憶の中の小学生のYちゃんと、アルバムの中のYちゃんは全く別人のように思える。写真のYちゃんは全く見たことのない子だった。

ジョギング

健康診断のたびに運動不足を指摘されていたTさんは、三十代半ばで一念発起して毎朝ジョギングすることにした。
家から走って十五分ほどのところに霊園があり、Tさんの家のお墓もそこにあるので、そこまで行って手を合わせてから帰ってくる。別に目的地は他の場所でも良いのだが、三日坊主にならぬようご先祖様に見ていてもらうくらいのつもりだった。
そうしてジョギングを始めて三日目のこと。
荒い息を整えながらお墓に手を合わせ、さあ帰ろうと振り向いたところで三軒隣のお墓におばあさんがいた。
おばあさんは両手で墓石を抱きしめるようにしながら石の表面を撫でさすっている。さも愛おしいというような仕草だ。
大切な人が眠っているお墓なんだろうな。そう考えながらTさんはそちらに歩いていった。
通り過ぎるときにおばあさんに挨拶しようとして、声が喉まで出たところで気がついた。
おばあさんの胸から下がない。
両腕と首だけが墓石から生えている。
あっと息を呑んだTさんは目を合わせないように下を向いて霊園を出た。


翌日以降も霊園までのジョギングは続けたが、そんなものを見たのはその日だけだったという。

叫び

真夜中のこと。
Rさんがいつものように夫と幼い娘の三人で川の字になって寝ていると、夫が突然大声を上げた。


ああああああああああああ!!


横になったまま目を見開いて、ひどく怯えた様子で叫ぶ。その声で目を覚ましたRさんが宥めようとしたが、一体何がそんなに怖いのか、Rさんの言葉が届いた様子もなく、天井に向けて大声で悲鳴を上げ続ける。
体を動かさずにじっと上を見上げたまま叫んでいるのも尋常ではない。何かに怯える人は逃げようとか隠れようとか何かしら動くはずだろう。どうにもまともな様子には見えない。
Rさんの方もすっかり狼狽えて、病院に連れて行ったほうがいいだろうか、救急車を呼ぶべきだろうか、と迷っているところで、ふっと声が止まった。
夫はといえば穏やかな寝息を立てて寝付いている。たった今まであんなに大声で叫んでいたのが嘘のようだ。呼吸は落ち着いているし、顔色も悪くない。
叫んでいたのは五分間くらいだった。単なる酷い寝言だったのだろうか。それにしても切り替わりが急すぎる。
何にせよ、鎮まったのならもう心配することもないのだろうか。釈然としないながらも改めて横になったRさんだったが、そこでもうひとつ気になることに思い当たった。
娘が起きなかったことだ。
あれだけ大騒ぎしたのに、娘は今も規則的な寝息を立てて眠っている。いくらなんでも鈍すぎるのではないか。子供だから眠りが深いのかもしれないが。


翌朝、Rさんは夫に昨夜のことを尋ねたが、夫は何も覚えていないという。やはり単なる寝言だったのだろうかと、Rさんはそれ以上追求しなかった。
ところがその日の深夜にも、Rさんは叫び声で飛び起きた。


わああああああ!
ああああああああ!!


今度は娘だった。前夜の夫と全く同じように、仰向けになったまま目をカッと開いて叫んでいる。
どうしたの!? 何が怖いの!?
呼びかけてみても娘は叫び続けるばかりだ。Rさんは夫を起こそうとした。
しかし夫は穏やかな顔で眠っている。いくら声をかけても、揺り動かしても目覚める気配がない。
一体なんなの……。
Rさんが途方にくれているとこれまた前夜の夫と同じように、娘は突然静かになった。
やはり翌朝には娘は夜中に叫び声を上げたことを何も覚えていなかった。


夫、娘とくれば次は私の番だろうか。Rさんは怖くなった。
寝る前に夫にも自分が夜中に叫びだしたら引っ叩いてでも起こしてほしいと頼んでおいた。
しかし拍子抜けしたことに、次の朝まではぐっすり眠れて、夜中に変わったことはなかったようだった。夫も娘も何もなかったという。
ほっとしたRさんだが、またすぐに不安になってきた。
夫も娘も自分自身が夜中に叫んでいたことを覚えていなかった。それにすぐ傍で叫び声が上がっていても全く目を覚まさなかった。もしかすると自分も同じで、本当は夜中に叫んでいるのに覚えていないのではないか。


それを確かめるために、Rさんはポータブルのレコーダーを買ってきて寝る前に部屋に置いた。寝ている間の部屋の音を録音するためだ。
これで三人の誰かが叫んでいればわかるはずだ。

翌日、Rさんは録音を再生してみた。叫び声は入っていなかった。
ところが、先に進むにつれてだんだん雑音が混じってくる。ラジオの電波が乱れているような聞こえ方をする。
しかし室内の録音に電波は関係ない。何の音だろうと聞き進めていくと、やがて何の音なのか聞き取れるようになってきた。
ざわざわと大勢の人間の話し声、足音。そんな雑多な音が混じり合っている。
これは人混みの音だ。
ひとつひとつははっきりとは聞き取れない大勢の話し声、すぐ近くや遠くを足早に行き交う靴音。
そんな音が録音が終わるまで一時間以上続いていた。新品だから、レコーダーに元から入っていたはずはない。寝ている間にこんな音が寝室でしていたというのだろうか。
気持ち悪いのでその録音データはすぐ消したという。