海辺の着信

Rさんが五月の連休に船橋で潮干狩りをしたときのこと。
混雑してはいたものの、小学生の息子と娘は大喜びではしゃいでいた。二人とも海に来るのは初めてだったからだ。
連れてきて良かったとRさん夫婦は頷き合い、Rさんは娘と、妻は息子と一緒に貝を掘り始めた。
幼い娘が熊手で砂を引っ掻いているのを傍らで微笑ましく眺めつつ、Rさんも我が子にいいところを見せようと砂を掘り返し、一握りのアサリを収穫した。
娘は喜んで、自分も貝を探し出そうと手当たり次第に足元の砂を掘り始めた。
するとそこでRさんの肩を誰かが叩く。振り向くと妻だった。
どれくらい獲れた? こっちはまだちょっとだけど。
そう話しかけたが、妻はただにこにこ微笑みながら立っているだけで、返事はない。
なに? なんかいいことあった?
重ねて問うが、やはり妻は答えない。
そこで気がついた。妻と一緒にいた息子はどこだろう。姿が見えない。
息子のことを尋ねようと口を開きかけたとき、スマホが鳴った。画面を見ると、妻からの着信だ。
眼の前にいるのに、どうして通話を?
訝しみながら視線を上げると妻がいない。どこに行ったと思いながら着信に出る。
すぐそっち行くから。
妻は電話のむこうでそう言うとすぐに通話を切った。直後に妻が息子と手を繋いで近づいてきた。
おう、どうした? いなくなったり戻ってきたり忙しいな。
そう声をかけたものの、妻は曖昧に言葉を濁す。
それからは四人でかたまって貝を掘った。ふたたび二組に分かれなかったのは、妻の顔色がどことなく沈んでいたからだ。


電話をかけてきた前後のことを妻が語ったのはその夜、子どもたちがはしゃぎ疲れて早く寝てしまってからのことだった。
貝を掘り始めてから、あまり遠くに離れてしまわないように妻はRさんと娘の姿を常に視界の端に捉えていた。
だからRさんの背後に誰か近づいていったことにもすぐ気がついた。男がひとり、しゃがんだRさんに近づき背後から肩を叩いた。
Rさんが立ち上がって男に向かって笑顔で何か話しかけたのが見えたが、妻が驚いたのは、近づいてきた男のほうもRさんによく似ていたことだ。
似ているというどころではなく、服装も髪型もそっくり夫と同じだ。顔も横顔を見ている限りでは同じに見える。
誰なのあれ。何か変だ。
近づいていって声をかけたほうがいいだろうか。でも何だか怖い。少し迷ってから、妻はスマホを取り出してRさんに電話をかけた。
夫が着信音に気づき、ポケットからスマホを取り出すのが見えた。
直後、近づいていった男がふっと消えた。動きも見せず、ただ電灯のスイッチを切ったようにいきなり消えたのだという。


妻の話を聞いたRさんは、人がいきなり消えたことよりも、自分と妻でそれぞれ見えていた相手が異なっていたことが不気味だった。
あの時、本当は眼の前に何がいたのだろうかと気になって仕方がないという。

朝馬

静岡に住むKさんが東京に出張した。
ビジネスホテルで一泊したが、ふと目を覚まして時計を見るとまだ午前四時。空調のせいか、昨晩のビールのせいか、喉がカラカラに乾いている。
水でも飲んで寝直そうと思ったのだが、普段と環境が違うせいか、もうそれほど眠くない。
そのホテルには朝食がついていないことを思い出し、ちょっと早いが近くのコンビニに買い出しに行こうと思い立った。
着替えて外に出ると前の通りは静かで、人の姿も車の通りもなかった。
表通りじゃなければ東京でも早朝はこんな閑散としているものなのか、と意外に思いながらコンビニを目指して薄暗い街を歩いていると、後ろから聞き慣れない音がする。
ポックポックポックポック。
硬いものがアスファルトを叩く、リズミカルな響きだ。
何の音だろうと不思議に思って振り向くと、音の主が見えた。
馬だ。馬が一頭、早朝の街をこちらに進んでくる。
こんな街中に馬がいるのか。近くに乗馬クラブでもあるのだろうか。
驚きながらもそのまま歩いていると、馬は悠々と歩いてKさんを追い越していく。
その背中には茶色の着物を着た女性が横座りしていた。
無造作に垂らした長い髪が、馬の歩みに合わせてひらひらと揺れていた。顔は反対側を向いていて見えなかったが、格好から若い女性のように思えた。
乗馬という雰囲気ではなかった。どういう経緯があって、あの格好で馬に乗っているのか、想像がつかない。
馬は通りの向こうを曲がって見えなくなり、Kさんはその手前のコンビニに入った。お茶と弁当を買いながら、大学生くらいの店員に先ほど見たものについて尋ねた。
馬? そんなのこの辺で見たことないっすね。
店員は怪訝な顔でそう言う。
ホテルに戻ってからフロントの職員にも同じことを訊いたが、心当たりがないということだった。
馬がどこかから脱走したとかいうニュースもなかったし、あれは本当に謎でしたね。Kさんはそう語った。

鉄板

消防団に所属しているSさんの話。
コロナ禍より二年ほど前のこと、秋に直撃した台風の大雨で川がかなり増水した。
そういうときは消防団が堤防や水門、橋などに異常がないか見て回る。Sさんも年配の団員と二人組で、自前の軽トラックで警戒ポイントを見て回った。
とりあえずまだ水位は堤防を超えるほどではなく、橋脚に流木が溜まっているようなところもない。山の方は見ていないからそちらの危険性はわからないが、とりあえず川のほうに差し迫った危機と言えるほどのものはなさそうだった。
ひとまず肩の力を抜いて戻ろうとしたところで、年配の団員が怪訝そうな声を漏らした。
なんだありゃ。あんなもんあったか?
つられてSさんもそちらに目を向けると、少し離れた堤防の上から対岸にかけて、黒いものが長く伸びている。
薄っぺらだが、対岸に届くほど長い。川の上を完全にまたいでいる。
しかし橋にしては薄いし、橋脚もない。何よりそんなところに橋はなかったはずだ。
――おかしい。
二人は土手の上を歩いて近寄ってみた。
鉄板のようだった。
幅二メートル程度の滑らかな鉄板が、対岸まで細長く伸びている。川幅は二百メートルほどだから、鉄板の長さもそれくらいはあるだろう。
厚みは一センチ程度か。撓んで川の中程あたりでわずかに下がっているが、そのまま対岸の土手の上まで続いているように見えた。
鋲や杭を打ってある様子もなく、ただ土手の上に載せてあるようにしか見えない。見える範囲に継ぎ目もない。
果たして、途中に支え無しで折れたり曲がったりすることなく、この長さの鉄板を川に掛けることが可能なのだろうか。
仮に可能だとして、誰がどういう目的で、こんなときに。
皆目見当がつかない。
とりあえずスマホで写真を数枚撮り、それ以上のことはその場ではどうしようもないので、後で消防署と市役所に報告すればいいとして、立ち去ることにした。
数歩進んだところで、キーン、と甲高い音がどこかで鳴った。耳慣れない音で、金属が擦れ合うような、高速で機械が作動するような、そんな響きだ。
今のって何の音ですかね、と二人で顔を見合わせてから周囲を眺めて、異変に気づいた。
あの長い鉄板がない。
折れて川に落ちたのかとも思ったが、あれだけ大きなものがほんの数歩ぶん目を離しただけで跡形もなく沈んでしまうはずがない。大きなものが折れたり落ちたりしたような音も聞こえなかったし、振動もなかった。
ましてやSさんたちが歩いていたのは鉄板より下流側だ。落ちて川に流されるならSさんたちのほうに来るはずだが、全く視界に入らなかった。
流れ去ったのではなく、ふっと消えてしまったとしか思えない。
鉄板そのものも不可解だったし、消えたのも不可解で、夢でも見ていたような感覚だった。


一応消防署に報告はしたものの、まともに取り合ってはもらえなかったという。

 

焼き爺

Rさんが小学生のときの話だという。
学校から帰ってきたRさんが玄関から入った途端、あっ、焼き魚だ、と思った。
玄関から見えたわけではなく、魚の焦げたようなにおいと油の焼ける音がしたのだ。
しかし晩ごはんの支度をするにはまだ早い。おやつに焼き魚ということもないだろうし、どうして今頃魚を焼いているのだろうと疑問に思った。
この時間には家に母親しかいない。魚を焼いているのは母親だろうと疑うこともなく、ただいまと声をかけながら台所に向かった。
しかし台所のガスコンロの前に立っていたのは母親ではなく、知らないおじいさんだった。
誰?
はっとして台所の入口から退いたRさんだったが、おじいさんはこちらに気づいていないのか無視しているのか、コンロをじっと見つめたまま直立して動かない。
魚を焼くような音は続いている。
どうして知らないおじいさんがうちで魚を焼いてるんだ?
そこにリビングで電話が鳴った。台所のおじいさんは動かない。
Rさんは後ずさりしてそこから離れると、リビングで電話の受話器を取った。

 


「食べるなよ」

 


受話器からはそんな声がして、すぐに通話が切れた。かすれた男の声だった。
えっ、もしもし。なんだったの今の電話。台所のおじいさんもそうだけど、今日はおかしい。
そこにリビングの庭に面した縁側から母親が上がってきた。庭で草むしりをしていたらしい。
あら、帰ってたの、おかえり。母親には特に変わったところがないようなので、Rさんはほっとした。
知らないおじいさんが台所にいる、魚を焼いてる、と母親に知らせたところ、母親も驚いて台所を覗き込んだ。
しかし誰もいない。誰かが出ていった気配はなかったのに。
油が弾ける音もいつの間にか止んでいて、コンロや魚焼きグリルに使った形跡はなかった。

 


ただ、魚を焦がしたようなにおいはまだ家の中に漂っていたという。

位牌

Fさんという女性から聞いた話。
一月のある夜、Fさんの弟の妻である義妹が訪ねてきた。
「お義父さんお義母さんの位牌を預かっていただけませんか」
弟夫婦はFさんの実家で二人暮らしだ。Fさんの両親の位牌が納められた仏壇もそちらにある。
しかしその位牌を預かってくれとは、急に何を言い出すのだろう。
どういうわけでそんなことを、と聞き返したものの、義妹はとにかく預かってほしいの一点張りだ。
義妹は若い頃から筋道だった話し方をする人で、こんなふうに理由も言わずに押し通そうとするのは珍しい。
何か困ったことでもあったのだろうか、と訝しみながらもとにかく事情もわからないのにそんな大事なもの受け取れないわよ、と答えた。

 

そこで目が覚めた。
体を起こしてからも、義妹が訪ねてきたことが夢だったのか現実だったのか曖昧なくらいにリアルな夢だった。
変な夢だったと思いながらも、お盆に顔を合わせて以来弟夫婦と連絡を取っていなかったことを思い出したので、昼に電話をかけてみた。
しかし出ない。
出かけているのかと思ったが、そうではないことが後でわかった。
弟夫婦は一酸化炭素中毒で二人揃って意識を失い、朝方に救急車で搬送されていた。ストーブの不完全燃焼が原因で、幸い近所の人が気づくのが早かったので二人とも半日で帰宅できた。

 

位牌を預かってほしいというのはそういうことだったのか。
あのとき夢の中で位牌を受け取ってしまっていたら。
――果たして二人は帰ってこれただろうか。
そう思うとFさんは背筋が冷たくなったという。

追いつかない

長野の大学に入ったGさんの話。
大学の近くのアパートに下宿したが、すぐ近くの高台に公園があり、散歩でよく行った。
その公園から尾根伝いに遊歩道になっており、もう少し上にある展望台まで行けるようになっていて、そちらにも気が向けば足を伸ばした。
ある日の夕方、気まぐれに展望台まで行って帰る途中のこと。
ふと気がつくと前方にもうひとり歩いている後ろ姿があった。灰色のトレーナーを着た、年配らしき男性だ。
初めは特に意識もせずその背中を眺めながら歩いていたGさんだったが、そのうちにある疑いが頭をよぎった。これはおかしいんじゃないか?
というのも展望台にいたのは自分ひとりだけだったから、すれ違うならともかく、自分より先に展望台から下っていく人の姿があるのはおかしいのだ。
とはいえ、展望台まで行かずに途中で引き返している人なのかもしれない。あるいは脇の林から遊歩道に出てきた人なのかもしれない。
そんなことを考えながら、Gさんは一定の距離を保ったままその背中の後ろを歩いていった。
すると急に前の人が速度を早めてぐんぐん遠ざかっていく。
しかし体の動き方は変わっておらず、同じ歩調で歩いているように見える。目がおかしくなったのだろうかと思いつつよく目をこらしてみると、勘違いに気づいた。
遠ざかっているわけではなかった。相変わらず前の人はGさんから同じくらいの距離のあたりを歩いている。
ところがその後姿がどんどん小さくなってきている。だから遠ざかっていくように見えたのだ。
いや、そんな小さくなっていくのはおかしいでしょう、と見ている光景が信じられないGさんは、もっと近くで確認しようと足を速めた。
しかし前の人の縮小は留まるところがなく、更に小さくなっていって、Gさんが追いつくより前にすっかり縮んで見えなくなってしまった。周囲を見回しても誰の姿もない。
どういうわけか、Gさんはそのとき――。
ひどく惜しいことをしたような、残念な気持ちに襲われた。
もっと早くあの後ろ姿に気づいていれば、もっと早く追いついていれば。
自分でもどうしてそう思ってしまうのかわからない。
それでもそんな思いがまとわりついて、何日ものあいだ頭を離れなかったのだという。

川面

Rさんが彼女とデートしてホテルで一泊し、どこかで朝食を食べてから帰ろうかと朝の街を二人並んで歩いていたときのこと。
ぽつぽつと言葉を交わしながら歩いているうちに川にかかる橋に差し掛かった。見下ろす川面に朝の光が反射してキラキラ輝いている。
昨夜はあまり眠っていないせいか、いつになく眩しく感じられた。しかし妙に目を逸らすことができない。
歩きながら光の反射を見ていると、わけもなくそこから飛び降りたくなった。そう思うといてもたってもいられない。
よし飛び降りようと思って欄干に手をかけたものの、そこで思い出した。まだ朝飯食べてないな。
彼女と朝飯に行くところだった。飛び降りるのは何か食べてからにしよう。
そう思いとどまって彼女の方を振り向いたところで、すぐ隣で彼女が欄干を乗り越えようとしていた。
慌ててその襟首と腕を掴んで押し留めるが、すごい力で抵抗しながら尚も飛び降りようとする。
朝飯! 朝飯まだだから!
そう言って宥めるとようやく彼女はおとなしくなったので、あらためて二人で近くの牛丼屋に入った。
カウンターに並んで座り、注文した定食が来たので箸を手にしたところで二人して我に返った。

 

さっきの、何だあれ?
どうして飛び降りるのが当たり前みたいに思い込んでたんだ?
朝飯食べてからにしようなんて思わなかったら、あのまま二人して飛び降りていたに違いない。しかしその理由がわからない。
とにかくあの瞬間は、それが当然のことだと思い込んで疑うこともできなかった。それを思い返すと背筋にいやな汗をかいた。
そのまま二人は味のわからない食事を済ませ、店を出てからもまだ一人になりたくなかったので、二人してRさんの部屋に行き、夕方まで青い顔をしてじっとしていたという。