松と月

Rさんが小学生の頃、お父さんが知人から一幅の掛軸を貰ってきた。
古い土蔵に仕舞われているガラクタを処分する手伝いに行き、そのお礼として蔵の中にあったものを貰ったのだという。
松林の上に月が出ている風景が淡い墨で描かれている。
なかなかいい絵だろうと言ってお父さんはその日から床の間にこの絵を飾った。絵師の名前を聞いたかどうか、Rさんは覚えていない。


この絵を飾るようになってから、その部屋が妙にじめじめするようになった。
真夏でも他の部屋にくらべて空気がじっとり冷たい。涼めるような気持ちの良い冷たさではなく、嫌に重苦しい湿気が張り詰めていた。
日中に戸や窓を開け放っても、閉めている夜中のうちにすっかり元通りに湿ってしまう。妙なことに、開けておいたはずのガラス戸が誰も知らない間に閉じられていることもあった。
畳を踏むとべたべたするようになり、十日も経たないうちに床の間の隅には真っ白に黴が生えた。
変なものを貰ってくるから変なことになるんでしょ、とお母さんが文句を言った。
当初は換気の問題と思っていたお父さんも流石におかしいと思ったようで、掛軸を箱に仕舞ってみると部屋の空気はすぐに良くなった。
やはりどうも掛軸に問題があるらしい。
陰干ししておいたら湿気が抜けないだろうか、とお父さんが言い出して、晴れた日に裏庭の日陰に掛軸を吊るしておくことになった。
掛軸そのものは別段湿っていたわけではないから、この解決策もなんだか変だなあとRさんは思ったが、干すことで掛軸に何か変化が生じるか興味はあった。そこでRさんも裏庭でしばらく様子を見ていたのだが、見てわかるような変化がないので飽きて家の中に戻った。
それから一時間ほど後のこと、お父さんが玄関から呼んでいる声が聞こえる。行ってみるとお父さんは裏庭から回収した掛軸を手に困った顔をしている。
月が、とお父さんは言った。
絵を見ると、松林の上に出ていたはずの月がどこにもない。下に描かれた松林はそのままなのに、空に描かれていたはずの月が消えてしまっている。
塗りつぶしたり削ったりした跡もない。かき消すようになくなっている。墨で描いた月が消えることがあるのだろうか。


それ以来はどういうわけかその絵を飾っても部屋に湿気が籠もることはなくなった。
月が出ていたのが気に入っていたのになあ、とお父さんは残念がっていた。
のちに両親が亡くなってからこの掛軸のことを思い出したRさんは実家を探したものの、見つからなかったという。