瞬間移動

四十年ほど前のこと、Jさんの祖母は体を壊して家で寝たきりになっていた。
半年ほどその生活を続けてから更に容態が悪化し帰らぬ人となったが、その半年間に祖母は何度も瞬間移動していたという。
当時中学生だったJさんに対して、布団の上の祖母がこんなことを言った。
あれ、海を見ていたのに。いつの間に帰ってきたのかねえ。驚いた。
このときは祖母が夢の話でもしているのだと思っていた。
ところが別の日、Jさんがふと祖母の寝ている八畳間を覗くと、掛布団がぺったりつぶれている。よく見ても祖母の姿は布団にない。
部屋を見回しても誰もいない。無人の部屋に布団が敷いてあるだけだ。
いつもの祖母の部屋のにおいだけがあって、部屋の主がいない。
病院かなにかに行ったのだろうか、と思ったがそういう話は聞いていないし、両親は家にいるようだ。祖母は一人で歩くことはできない。
どうしよう、おばあちゃんがいなくなってしまった。母に報告しようとして、もう一度祖母の部屋の前を通ったJさんは開いた戸の向こうで布団が膨らんでいるのを見て足を止めた。
いつものように祖母が寝ている。
広い家ではない。祖母が部屋を出ていたとしても、誰かに介助されて床に戻ったのなら気付いたはずだ。
いつ祖母が部屋に出入りしたのか全くわからなかった。母に一応尋ねてみたが、祖母はどこにも行っていないという。
祖母の布団の傍に行くと、目を瞑っていた祖母はJさんに笑いかけて言った。
今日はね、神社の紫陽花を見たよ。懐かしいね。久しぶりに見られてよかった。
確かにその頃は紫陽花の季節だった。
だが一人で立てない祖母が外出できるはずがない。やはり祖母は夢の話をしているのか。
しかし祖母が布団から消えているところをJさんは確かに見た。夢ではなく、祖母は実際に外出して紫陽花を見てきたのだろうか。
そうだとすれば、祖母は瞬間移動でもしているとしか思えない。
以後もたびたび、Jさんは祖母が部屋からいなくなっているのを目撃した。祖母が消えていることに気づいていたのはJさんだけだった。
毎回、いつの間にか姿を消していた祖母は知らないうちに布団に戻っていた。
だから最終的に祖母の容態が悪化し、病院へ担ぎ込まれてそのまま息を引き取り、葬儀が終わった後でも。
知らないうちに祖母が戻ってきているような気がして、Jさんはしばらくの間、祖母の部屋を覗く癖がついていたという。