Hさんという人が仕事で四国に行った。
泊まった宿は随分古い旅館で、案内された部屋は長い回廊の奥だった。
疲れていたHさんは夜も早いうちに布団に入ってしまったのだが、普段より早い時間に眠ったせいで、まだ暗いうちにふと目が覚めた。
まだ朝までは時間があるな、と思って再び目を閉じたHさんだったが、畳の上で何やらカサカサ音がする。
小さな虫が這い回っているような音だ。
ゴキブリでも出たか、と慌てて上体を起こして周りに目を凝らすと、やはり小さなものがいくつも動き回っている。
ガラス越しに差し込む月明かりにぼんやり照らされたそれは、五センチほどの大きさの蟹だった。
蟹が何匹も、畳の上をゆっくり歩いているのである。
ゴキブリではなかったものの、なぜこんなものがいるのかわからない。
どこかに隙間があって、そこから入ってきたのだろうか。
幸い布団の上には登ってきていないものの、すっかり面食らったHさんは枕を掴んで蟹めがけて何度も振り下ろした。
しかし何度叩きつけても蟹は一向に減っている様子がない。
畳の上にも潰れた蟹は見当たらない。
むきになったHさんが何度も何度も枕を畳に叩きつけているうちに、窓の外がふっと明るくなった。
朝か、と思って我に返るとあれほどいたはずの蟹がどこにもいない。
寝ぼけていたのか。
そう思ったHさんだったが、気がつくと部屋の中には明らかに潮のにおいが漂っている。
海からだいぶ離れた街である。潮のにおいなどどこから来るというのか。
訝しんで見回すHさんの目に、ふと床の間に掛かった額が映った。
昨夜は疲れていたので床の間になど注意を払っていなかったのだが、よく見てみると額には水彩画が収められている。
そこには浜辺の情景が描かれていたという。