袴裃

車の販売店に勤めるFさんの同僚にUという男性がいて、あまり評判がよくなかった。
仕事は人並みにはこなすものの、煙草も酒も人一倍呑み、博打も風俗も好きで給料の大半は遊びにつぎ込んでいるという噂だった。
職場での人間関係に特に問題はなかったものの、私生活で彼と付き合いのある同僚はいなかったし、彼の方も進んで同僚と交流しようとは思っていないようだった。
そしてあるとき、Uが知人の紹介で見合いをして、そのまま結婚するという話が出た。
そのこと自体も職場の皆にとっては意外だったが、皆を本当に驚かせたのは結婚を境にしてUの生活態度が改まったらしいということだった。
酒も煙草も博打も風俗通いもぴたりと止めたという。にわかには信じられない話ではあったが、様子を窺う限りは本当のように見えた。
職場でも彼が喫煙スペースにいるのを見かけることはなくなり、頻繁に漂わせていた煙草臭さが消えた。
職場の飲み会に参加してもアルコールを全く口にしない。
以前より仕事に集中できるようになったらしく、上司からの評判もよくなった。
どうしてそんなに急に変わったんだ、奥さんが怖いとか? Fさんがあるときそう尋ねると、Uは苦笑して答えた。
いや、嫁は優しいよ。まだお互い気を使ってるところはあるけど、割とうまくやってるよ。
じゃあどうして、という質問に、Uは少し言い淀んでから、出たんだと呟いた。


見合いをしてから数日後、パチンコで負けて帰宅したときのことだという。
アパートの自室に入るとテーブルの上に何かいる。侍だ、とひと目で思った。
袴裃姿の侍が、テーブルの上に正座してこちらを見据えている、
何だお前、と言おうとした矢先に侍はテーブルの上に両手をついて深々とお辞儀をして、そのまま闇に同化するように見えなくなった。
帰宅直後で部屋の中は真っ暗だ。すぐに部屋の明かりを点けたが、あの侍はどこにもいない。
そもそも部屋が暗かったのに、あの侍がはっきり見えたのはどういうわけだったのだろうか。
単なる幻覚だったか。そのときはそう思うことにした。
ところがその翌日から、煙草に火を点けたり酒を飲んだりするたびにあの侍の姿がはっきりと目に浮かぶようになった。
博打や風俗でもなぜかしきりにあの侍のことが脳裏をかすめ、思うように楽しめない。ある時などはパチンコ店から出たところで視界の端を袴裃姿がちらりとかすめたが、目で追っても誰もいなかったという。


なんだかあの侍に常に監視されている気がして、とても以前のように遊ぶ気になれないんだとUは語った。
それから十年近く経つ。Uは今も品行方正なままだが、今もまだ侍の姿を見るかどうかはFさんも聞いていないという。