アカミミガメ

Mさんの父は釣りが趣味だが、あるとき釣り道具を持って出かけた父は魚ではなくカメを持って帰ってきた。
釣りをしていたところ近くの岸にいたので、網で捕まえたのだという。
緑がかって細かい縞があり、目の後ろに赤い斑がある。北米原産、ミシシッピアカミミガメだ。ペットが逃げたかそれとも誰かが放流したかして、野生化したものがMさんの住む町でも増えている。
外来種だし、そのまま放置するのもよくないと思って連れて帰ってきた。そう言って父はそのカメに家康と名付けて飼い始めた。どうして家康なのかというと、単に父が当時読んでいた時代小説の主人公が徳川家康だったからだ。
初めは警戒していた家康も次第に人に慣れて、やがて父の手から直接餌を食べるようになり、家族からも可愛がられた。


Mさんの妹は当時大学生で、あるとき友人たちと廃墟に肝試しに行った。
妹たちが行ったというのは市内にある廃墟で、もとはある企業の保養所として使われていた三階建ての施設だが、その企業が潰れてからはろくな管理もされないまま荒れる一方になっている。
確かに何か出そうな雰囲気の場所ではあり、肝試しにはもってこいの場所かもしれないが、廃墟で怖いのは心霊より生きた人間のほうだ。誰が潜んでいるかわからない。
そんなところに行ったというのを数日経ってから知って、Mさんも両親も妹の軽率さを叱った。
別に何も怖いことなかったし、ただ荒れてるだけだったよ。妹はそう言って平気な顔をしていたが、何もなかったからいいというものではない。
家族会議の末、妹はもうそういうところには行かないと渋々約束した。
この件に関係あるのかどうか判別はつかないのだが、妹が廃墟に行ったという日からMさんの家では奇妙なことが度々起きていた。
誰もいない風呂場から水を流す音が聞こえ、覗いてみてもバスタブも床も乾いたままだったり。
緩衝材のプチプチシートが、誰も触れていないのに一斉に音を立てて弾けたり。
閉めたはずのカーテンが勝手に開いていたり。
廊下で足音が一人ぶん多く聞こえたり。
家族は妹が廃墟から変なものを連れてきてしまったのではないかと疑ったが、妹はそんなはずはないと言い張った。廃墟では何も変なことはなかったし、家でもおかしなことは見ていないという。実際、家で奇妙なことが起きても妹はその場にいないことがほとんどだった。
お祓いでも頼んだほうがいいだろうか、とりあえず塩でもまいておこうか、とMさんと両親は話し合った。結果的には、そんなことはせずに済んだのだが。


奇妙なことが起こり初めて半月ほど経った頃、Mさんが家のリビングを通りかかると家康の入っている水槽の水に波が立っているのが視界に入った。
今日も元気に動いているなと何気なくそちらに目を向けると、水中でさかんに動いているのはカメではなかった。
大きさは五センチほど、白くて細い手足をばたつかせている。頭のあたりが黒くぼんやりして見えるのは長い髪がまとわりついているのか。
Mさんは目を疑った。
小さい女が泳いでいる。
水槽に近寄って目を凝らしたが、確かに人の形をしている。手のひらに乗るサイズの裸の女だ。
泳いでいるのか溺れているのか、とにかく手足を動かして浮いたり沈んだりしている。その動きで水が波立ち、ぴちゃぴちゃ音を立てた。
小人だ。どうしてこんなものが。
作り物には見えなかった。
網で掬ってみようか、と思ったところに、いつの間にか近づいてきていた家康が、女の後ろから素早く食いついた。
女は手足をばたつかせたが、家康は獲物を逃がすことなく、十秒かそこらで丸ごと呑み込んでしまった。
どういうわけかその日以降、Mさんの家で怪現象はぱったり止んでしまったという。