卒業旅行の朝

Fさんは大学卒業を前にして、友人二人と一緒に伊勢志摩に二泊三日の卒業旅行をした。
その二日目の夜に泊まったのは古い旅館で、三人が通されたのは本館とは渡り廊下で繋がった別棟だった。別館というよりは離れという様子で、襖で仕切られた二部屋の客室以外には洗面所とトイレと納戸しかない。
隠れ家のような趣で、通常料金の割に特別感があって悪くないと思ったのだが、どうも本館の北側にあるせいなのか、少し部屋の中が暗いような寒いような印象もあった。しかし夜だから日当たりは関係ないし、卒業旅行で盛り上がっているところでもあったので、特に気にはしなかった。
三人は昼にコンビニで買い込んできたビールを飲みながら日付が変わる頃まで話に花を咲かせたが、昼にもはしゃいでいた疲れからか誰ともなく横になって眠りについた。
どれくらい眠った頃なのか、Fさんはふと物音で目を覚ました。布団を軽く叩くような音が近くでする。
目を開けてそちらを見ると、白く細長いものがしきりに動いている。
壁際に置いてある鏡台の鏡面から生白い腕だけがぬっと伸びて、すぐ傍に寝ている友人の布団を何度も叩いている。
なにこれ!?
一瞬で目が覚めた。
当初はポス、ポスと軽く弾むような叩き方だったのが、見ているうちにだんだん音が変わってきて、力が籠もってきたのがわかる。
ポンッ、ポンッ。
パシッ、パシッ。
パンッ! パンッ!
もう明け方なのか、わずかに障子から外の光が差し込んでいる。叩かれた布団から舞い上がった埃が、差し込む光を受けて白く見える。鏡台から伸びる腕も光を照り返して輪郭が白く浮き出ている。
幻ではない。実体のある腕だ。そう感じた。
布団を叩かれている友人は熟睡しているのか、ピクリとも動かない。
腕に気付かれないようにゆっくり頭を動かし、反対側に寝ているもうひとりの友人に目を向けると、頭まで布団をかぶってこちらも動かない。
Fさんも怖さのあまり、あの腕をなんとかしようという気も起こらず、そのまま目を閉じてじっと時が過ぎるのを待った。
次に目を覚ますともう朝八時近くで、朝食の時刻だった。友人たちももう目を覚ましている。
早朝に見た腕について友人たちに言いだす気にもなれず、身支度をしていたところでふと気づいた。
そもそもこの部屋には鏡台など昨夜からなかった。それではあれは単なる夢だったか。
と安心しかけたところで、壁際の畳に四角い跡がついているのが見えた。あの鏡台があった位置だ。
まさか本当に、ここに鏡台があったのだろうか。
それについて仲居に尋ねることもできず、旅行の楽しさに水を差すのを恐れて友人たちに話すこともできないまま、その旅館を後にしたという。