茨城でスナックを経営するUさんの話。
コロナ禍より三年ほど前のこと、店にひとりの客が入ってきた。初めて見る顔だった。
その町には江戸時代から続く夏祭りがあり、普段は閑散とした田舎町だがその期間だけは帰省者と観光客で溢れる。
このときはその祭りが終わった二日後。見慣れないその客のことをUさんは祭りを見に来た観光客だろうかと見当を付けた。
しかしその中年男が印象的だったのは見慣れない顔というばかりではなく、妙に厚着をしていたせいだった。日没後とはいえ八月の暑い盛りに、ダウンコートをしっかり着込んでいる。ズボンも厚手で、まるで真冬の北国からそのまま迷い込んだような風体だ。寒さで焼けたような赤ら顔も、温暖なその辺りではあまり見かけないものだった。
他に客はおらず、男はカウンターの一番奥に座った。
流石に椅子に座る前にコートは脱いだものの、その下に厚手のセーターを着ている念の入りようで、しかも顔には汗一つかいていない。
男はこのあたりの酒があれば一杯、それと何か温かいものを、と注文した。冷房が効いた店内とはいえ、温かいものを頼むとは筋金入りの寒がりらしい。
Uさんは作り置きの味噌汁にご飯と玉子を入れてひと煮立ちさせた即席の雑炊、そして町内の酒造から仕入れた清酒をコップ一杯出した。男が随分寒そうな格好をしているものだから酒は熱燗にしようかと言いかけたものの、流石に八月に熱燗もないなと思って口には出さなかった。
それを美味そうに食べる男に、Uさんは尋ねてみた。お客さん、この辺りの人じゃなさそうだけど、観光ですか?
ええまあ、旅行です。男は熱々の雑炊をふうふう吹きながら答えた。関西らしき訛があった。
男はUさんにその町の話を聞こうとするわけでもなく、黙々と雑炊と酒を流し込むと代金を払って出ていった。来たときと同じようにコートを着込んで。
その夜は直後に常連客たちが来たので、真夏にコートを着た風変わりな客のことはそれ以上深く考えることはなかった。
翌日の夕方、開店の準備をしていたときのこと、Uさんはカウンターの下に手帳が落ちているのを見つけた。
表紙のくたびれた、使い込んだ感のある手帳だった。
客が落としていったのだろう。どの客だろうかと前夜のことを思い返して、あの厚着の客が思い浮かんだ。手帳が落ちていたのは確かにあの客が座った席の下だ。
持ち主の手がかりになるようなことが書いてあるかと思い、少し中を見てみようと思いついた。プライバシーに関わることが書いてあったならば、見なかったことにすればいい。
そうして客用の椅子に腰掛け、カウンターで手帳をめくったUさんはすぐに後悔した。
最初に目に入ったのは、裸の女の絵だった。小学生の手によるような稚拙なタッチの絵ではあったが、乳房や身体の丸い輪郭から女の裸体だということがわかる。
胴体は黒い鉛筆で描かれていたが、顔は赤鉛筆で真っ赤に描かれていた。真っ赤な顔に真っ赤な目鼻がぐりぐりと太く描き込まれている。口元は大声を上げて笑うように開いていた。
そして奇妙なのが、女の腹部から細長い突起が飛び出していることだった。突起の先は歯ブラシのように片側だけ毛が生えている。
女の絵の脇には整った大人の字で「今日のは大きかった」と書き込みがあった。
何だこれは。悪趣味な絵だと思った。
他のページをめくってみると、多くのページに同じような女の絵が描かれていた。ページによって少しずつ形が異なっていて、腹から出ている突起が更に三つ叉に分かれていたり、あるいは突起に蛸足のような吸盤が並んでいたり、頭部だけ妙に巨大に描かれていたりした。頭頂部に角があるものもあった。
そしてどの絵の横にも「今日は少ししか見られなかった」「今日のは気に入った」「気づかれそうになったので気を付けよう」などと一言ずつコメントがついている。
絵がないページもいくつかあったが、そこには「残念」「期待外れ」などと書かれていた。
変なものを見てしまった、と嫌な気持ちになったUさんは、見なかったことにしようと決めて、持ち主が取りに来たら返せるようにレジの横に手帳を置いた。
そしてその日の夜の営業時間になり、常連客の一人がやってきた。
店内に足を踏み入れるなり、その客は妙なことを言った。ねえ、それって何の煙?
煙? 何かを燃やしているわけでもないし、煮炊きしているわけでもない。見回しても、店内に煙などない。
何のことよ、と聞き返すと客も不思議そうに視線を巡らせている。
いや、店に入ったときにそのあたりに白い煙が見えたんだけどな。消えちゃったな。けっこう出てたんだけど。
そのあたり、と客が指さしたのはレジの辺りだ。
Uさんの視線はあの手帳に向いた。何か変なことがあるとしたらこれではないか。
まさかね、と手帳に触れたところで違和感があった。冷たい。冷蔵庫から出したばかりのように。
冷房が効いているとはいえ、エアコンの風が直接当たる場所ではない。実際、すぐ傍のレジは冷たくない。
Uさんは煙が出ているのを見ていないし、仮にそういうことが本当にあったとしても手帳が原因かどうかは判らない。だが、気味の悪い内容のこともあり、もうこれを店内に置いておくのも嫌になってしまった。だからUさんは裏口の外に置いてあるビールケースの脇に手帳を放り投げておいた。
その日誰も取りに来なかったら燃やしてしまおうと思って、営業中は努めて手帳のことは考えないようにしていた。
閉店してから見てみると、手帳は置いた場所から消えていた。
その後、手帳を取りに来た者はいなかったという。