紅い紐

Tさんの趣味は山歩きだという。頂上まで登るのではなく、麓の森林を歩き回るのが楽しいらしい。同じ場所に行っても二度と同じ景色はない、とTさんは言う。
その日、Tさんは福島の土湯峠にほど近い森の中を徘徊していた。ここにはそれまで何度か行ったことがあったので、その日も慣れた道筋を辿っていった。朝から森に入って、写真を撮ったり気に入った風景をスケッチしたりしているうちに、いつのまにか正午を廻っていた。
そろそろ昼食にしよう、と手頃な木の根元に腰を下ろして弁当を食べた。その辺りは別段遊歩道が作られているわけでもなく、Tさん以外の人影は見当たらない。真夏日だったが日差しは木々に程よく遮られ、木々の狭間を吹き抜ける風も爽やかだった。
喧しいほどの蝉の声に囲まれながら弁当を食べ終えたTさんは、散策を再開しようと腰を上げた。しかし五、六歩進んだところで、おかしな物に出くわした。Tさんの鳩尾あたりの高さに、真っ赤な細い紐が張り渡されているのである。紐自体はどこにでもありそうな組紐なのだが、それが木々を伝って長々と張り巡らされている。まるで立ち入り禁止の印のようだった。目で辿ってみても、途中から木々に遮られてどこまで続いているかは見えない。
(こんな所に、何の意味があって?)
興味を引かれたTさんは、一体その紐がどこまで続いているのか確かめてやろうという気になった。紐に沿って右手に歩いていくと、紐もすぐに右手に迂回を始めた。そのまま伝ってゆく。それから少しの間歩いていって、Tさんは妙なことに気が付いた。
(元の場所に戻ってきた?)
確かに紐は、輪になって元の場所に繋がっていた。逆に辿ってみても同じである。紐は直径二十メートルほどのいびつな円を描いている。逆に辿ってみて、途中に結び目も見つけた。紐の両端を固く結び合わせてある。
しかしこれはいささかおかしい。Tさんはこの輪の内側にいた。しかし、昼食前にはこんな紐を見た覚えがない。ならばどうやってTさんは輪の内側に入ったというのか。
あるいは、Tさんが昼食をとっている間に誰かが張ったとする。しかし、Tさんはこの森に入ってから他の人影を一度も目にしていないし、食事を取った地点は草丈が低く起伏の少ない、割合に見通しのいい地点なのだ。誰かがそんな作業をしていればすぐに気が付いたはずである。
考えても見当が付かず、不気味でもあったのでTさんはそのまま切り上げて帰ることにした。それ以来その森には入っていない。
ただ、その紐が真新しい、きれいな紐だったことがずっと印象に残っているという。