血豆がたり(70/100)

部屋を出ようとした時、足の小指を柱の角にぶつけた。強くぶつけたせいで余りの痛みに数秒間悶絶する。
何とか一息ついたものの、ぶつけた小指は付け根あたりから感覚がない。靴下を脱いでみると、小指の先が暗い紫色に変色していた。血豆ができている。
血豆は邪魔なので即刻潰すのが俺の癖だ。だいたいこんな所に血豆があっては痛くて靴も履けない。針を取り出して足にあてがった。
「お待ちくださいませ」
女の声がした。しかもアニメ声だ。
「お待ちください、本当に申し訳ありません」血豆に謝られても困る。
「まったくだ、誰の足だと思っている」
「恐れ多いことですが、わたくしがこちらに参りましたのも故あってのことなのでございます」聞いた訳でもないのに勝手に喋りだした。血豆の癖に。
「この地より西に五千里、険しい山々に囲まれた土地にわたくしたち血豆の国がございます。温暖な気候と豊かな土地に、名君と名高き血豆王の治世の下で民は平和に暮らしております。
わたくしの母は、血豆王第一王女様の乳母でございました。そのためわたくしも幼き頃より王女様の遊び相手をつとめさせて頂き、成長してからもお付きの侍女としてお仕えしておりました。
その第一王女様が、お労しくも熱病をお召しになり、もう一月以上も臥せっておられます。王様は国中の名医を呼び寄せ、治療にあたらせましたがまるで快方に向かう様子もございません。
そんな時、流浪の魚の目の民が国内にやってまいりました。魚の目の民と申せば古来より、我々の知らぬ神秘の技の数々を操る者たちと聞いております。王様は藁にも縋る気持ちで、魚の目の民を宮殿に呼び寄せました。
魚の目の祈祷師は、宮殿にやってくるなり中庭に怪しげな祭壇をしつらえ、妙な儀式をして告げました。
――姫様の病気を治す薬を手に入れるには、誰かが東の地にて百日を過ごさねばならぬ。
祈祷師はそれだけ告げると、早々にお城を出て行ってしまいました。誰にもその言葉の意味はわかりません。しかし国中の医師にかかっても治らない病です。祈祷師の言葉のほかにはもう、縋る物もございませんでした。
そこで王女様お付きのわたくしが、東へ向かう任に志願いたしました。日々お世話になっております王女様へのご恩返しをするのは今をおいてありません。そういうわけでただ今、こちらへ参りました次第でございます」
「でもそんなの、俺の足じゃなくてもいいのだろう。迷惑だから他所でやってくれ」
「ご迷惑は重々承知しておりますが、どうかいま少しお待ちください。百日とは申しません。せめてひとつ、物語をする間はお待ちいただけないでしょうか。こんなお話がございます」
と言って血豆は次のように語り始めた。

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むかし、裕福な家になに不自由なく育ったひとりの若い男がおりました。しかし彼には、人には決して言えぬ悩みがあり、そのために彼の心は日々決して晴れることはありませんでした。
若い殿方の悩みといえば、たいてい色ごとと相場がきまっております。この若い男の悩みごとというのもやはり、とある娘に想いを寄せていたことによりました。しかしこの男とその娘は、決して結ばれぬさだめでもありました。なぜならば、その娘というのは他でもない、血を分けた実の妹だったからなのです。
彼が自分の中の妹への想いに気付いたのは彼が十五、妹が十二のときでした。彼はその道ならぬ恋に人知れず悩み、苦しみました。しかし彼は長男で跡取り息子でしたから、自分がそんなことではいけない、という気持ちもあったのでしょう。結局のところは妹への想いを押し殺し、妹にとってはあくまでもよき兄のままでいようと決心しました。
しかしその決心もあっさり崩れてしまいます。妹が十九の年に、隣町から縁談が持ちかけられたのです。相手は彼の家よりも更に豊かな富を持つ、付近でも名高い旧家でした。妹はその跡取りの嫁として是非にと望まれたのです。
彼は再び悩みました。縁談として、実にいい話です。この結婚をすれば、妹は旧家当主の奥方としてこの先も幸せに暮らしてゆけることでしょう。妹の幸せを考えれば、ここは喜ぶべきところです。ですがそうなれば、妹が彼のもとから離れていってしまう。他の誰かのものになってしまう。これは彼にとっては何とも耐えがたいことのように思われました。
もちろん、妹がいつかお嫁に行くということは前々から予想できたことでした。しかし自分の想いを押し殺すことに必死だった彼は、それ以上のことはなるべく考えないようにしていたのです。
彼の苦悩をよそに、縁談はどんどん進んでゆきました。そして婚礼の日の前日、とうとう彼は驚くべき行動に出てしまいました。婚礼を控えた妹をさらい、誰も知らない遠くを目指して逃げ出したのです。まずは近くの山へと逃げ込みました。
しかしそれは悲劇のもとでしかありませんでした。逃げる途中で足を滑らせた妹は、増水した川に転落してしまったのです。遺体は二日後に下流で見つかりました。
妹を失った彼は途方にくれてしまいました。婚礼をぶち壊しにしたので、もう家に戻るわけにはいきません。失意のまま当てもなく歩き出した彼は、山中で力尽きて座り込みます。こんなに山道を歩き回ったのは彼にとって生まれて初めてでしたから、足には血豆がいくつも出来ていました。座ったままぼんやりと辺りを眺めていた彼は、このまま死んでしまおうかと考えていました。妹のいなくなってしまった今となっては、もうどこに行く気も、何をする気も起きなくなっていたのです。むしろ、なぜ妹が川に落ちたとき、自分も続いて飛び込んでしまわなかったのかとも思いました。いっそのこと今からでも、あの川に戻って飛び込んでしまおうか。
すると彼の足元から声が聞こえた気がしました。「お兄様」と。
なんとそれは死んだはずの妹の声でした。はっとして足元に目を落とすと、やはり彼の足から声がしています。
「お兄様、わたしはここにいます。どうかもう悲しまないで」
声は足に出来た血豆から聞こえていました。彼は喜びました。妹は、自分の足の血豆として生まれ変わったのだ。もう二度と、離れ離れになることもない。
それからというもの、彼はひたすら血豆に語りかけました。もう他のことを気にすることもありません。妹は文字通り彼とひとつになったのですから。これまで打ち明けられなかった想いを、彼はあらゆる言葉で伝え続けました。何時間、何日間話していても疲れることも、空腹を覚えることもありませんでした。しかし血豆ですから、時間が経つとだんだん治ってゆきます。血豆が消えるたびに、彼は足を岩に打ちつけ、新たに血豆を作り出しました。新しい血豆からは、また元気な妹の声が聞こえてくるのでした。ですがそんなことを繰り返していれば、じきに足の皮も厚く、丈夫になってゆきます。彼の足の皮は、岩に打ち付けても傷一つ付かないほど頑丈になってしまいました。仕方がないので今度は脚、腕、肩といった具合に、皮の柔らかい場所を探して血豆を作ってゆきました。それに従ってどんどん、皮の固くなった部分も増えてゆきました。
その後彼の姿を見た者はありません。ですから、血豆が妹の声で喋っていたのかどうかも、本当のところは誰にもわかりません。もしかしたらそれは、追い詰められた彼の心が生み出した幻だったのかもしれません。
今でも、藪の中で誰かに語りかける声を、山に入った者が時折聞くといいます。その声の主を見た者は誰もいません。

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そこまで話すと、血豆はふっと黙り込んだ。それで初めて、自分が物語に引きこまれていたことに気付いた。
「おい、それで終わりか」
いくら声をかけても、指で押しても、血豆はそれ以上声を出すことはない。何だか狐につままれたような、夢でも見ていたような気分だった。
うんともすんとも言わないので、今度こそ血豆を潰した。針を刺すとすぐに、赤黒い血が球になって盛り上がった。それをティッシュで拭き取ってゴミ箱に投げ捨てる。少し胸がすっとした。
そもそも自分は部屋を出て行こうとしていたのだ。思わぬ時間を取られてしまった。だいたい血豆が喋るはずがない。全部自分の妄想だったのではないか。それこそ始めから全て。
しかし振り返った部屋の中には元の通り、冷たくなった妹が花嫁衣裳を着て横たわっていた。





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