正座

Mさんは高校生のとき、書道部に入っていた。
部活動で使っている書道教室は窓際に流しがあり、使った道具は帰る前にそこで洗う。
道教室は校舎三階の端にあり、窓のすぐ下に通路を挟んでプールが見下ろせる。Mさんは筆を洗いながら、プールをなんとなく眺めることがよくあった。
放課後のプールは水泳部が練習で毎日使っていたが、Mさんが部活動の最後に筆を洗う頃にはもう練習はほとんど終わっていて、誰かが泳いでいることはほとんどなかった。せいぜい誰かがプールサイドを掃除しているくらいだった。
ところがあるときMさんが筆を洗いながら窓の下に目をやると、少し様子が違うところがあった。
プールの中に人の姿がある。泳いでいるわけではない。
水の上に浮かんで座っているように見える。水面に正座している。
普通は水に入れば首まで水に浸かるだろう。生身の人間にあんな浮き方ができるはずがない。
正座したままじっと動かないので、作り物かもしれないとMさんは考えた。風船か発泡スチロール製の人形なら、あんなふうに浮くだろう。
ねえ、あれ何だと思う? とMさんは他の部員に尋ねようと振り向いたが、書道教室内には他に誰の姿もない。
たった今しがたまで他の部員も背後でまだ字を書いていたり道具の片付けをしていたはずなのに、いつの間にか一人もいなくなっている。
机の上もきれいに片付いていて、みんなとっくに帰ってしまったようだ。Mさんの体感では筆を洗っていたのはほんの数分、窓の外を見ていたのも十秒かそこらのはずだった。
そんな僅かな間に片付けを終えて音もなく立ち去ることができたのだろうか。それとも自分がそれに気づかないくらいぼんやりしていたのだろうか。
おかしいな、と思って廊下に出てみたが、書道部員の姿はない。遠くから吹奏楽部の練習する音が聞こえてくるくらいで、人の声もない。
なんだみんな、私を放っておいて帰っちゃったのか、薄情だなと思いながらもう一度書道教室に入ると、部員たちがいた。
みんな先程の続きのように片付けをしていたが、驚いたように手を止めてMさんのほうを見た。
あれ? いつ外に行った? ひとりがそんなことをMさんに言う。
話を聞くと誰一人としてMさんが廊下に出たことに気づかなかった。廊下から入ってくるところを見るまで、Mさんが窓際で筆を洗っているものとばかり思っていたという。
Mさんのほうも訝しがりながら聞いた。みんな今どこに行ってたの?
しかしこれも話は噛み合わなかった。みんなMさんを置いて書道教室から出て行ってなどいないという。実際、机の上はまだ片付いていない。

 


あの正座する姿を見てからおかしくなったんだと思ったMさんはもう一度窓際から下を見たが、プールにはもう誰の姿もなかった。