木造アパート

埼玉から千葉に転勤が決まったYさんが引越し先を探していたときのこと。
不動産屋に案内されたアパートの三階で、窓から外に目をやった。すると道を挟んだ向こうにも二階建てのアパートがある。
その二階の端の部屋の窓が開いていて、中に人の姿が見えた。
割烹着姿の若いお母さんとおかっぱ頭の幼い女の子がちゃぶ台越しに向かい合って座っている。お母さんは繕い物をしていて、女の子はクレヨンかなにかで紙に熱心に何かを描いている。
親子の微笑ましい光景だが、今どき割烹着やおかっぱ頭とは珍しい。向かい側のアパート自体も古びた木造で、何だかそこだけが数十年前の風景という印象だ。
建物も住人の姿も何もかもがレトロな雰囲気で、Yさんは何だか感心してしまったという。


その眺めが気に入ったからというわけではないが、Yさんはその時案内されたアパートに入居を決め、翌月に引越して来た。
改めて窓から外を見ると、あの木造アパートがない。道を挟んだ向かい側には民家が並んでおり、あの古いアパートは影も形もない。
老朽化で取り壊されたのだろうか、とも思ったが、同じ場所に建っている民家はどれも新築には見えない。
方向を勘違いしているのかと思ったが、それらしき古い建物は周囲のどこにもない。あの日見て回った他の物件と勘違いしているわけでもない。
後で近所の人やアパートの大家さんに尋ねてみたが、その場所に木造アパートが建っていた事実は過去にもないという。
あの幸せそうな親子の姿も幻だったのだろうかと、Yさんはそれを残念に思ったという。