Nさんは物心ついた頃から、ときどき身の回りで謎の男を見かけていたという。
がっしりした体格で丸顔、短く刈り込んだ髪に太い眉で、まるで上野公園の西郷隆盛像である。むしろNさんは上野の西郷像のほうを後から知って、この顔あの人に瓜二つだなと思ったくらいで、それ以来Nさんはその男を西郷さんと呼ぶようになった。
そういう特徴的な姿をしているのに、Nさん以外にはその男の姿を誰も見ていない。
家の前を通り過ぎていったり、公園で遊んでいるときに砂場の脇を歩いていったり、町中ですれ違ったりと、Nさんは何度もその男を見かけている。しかし家族も友人も、誰一人その男を見た覚えがないし、心当たりもないという。
西郷隆盛の霊が出てきているのかとも思ったが、その割にはスーツだったりTシャツだったり着ているものが現代的で、同じ格好で出てこない。現実に存在している姿に見える。
奇妙なことにNさんが幼い頃から大人になるまで、ずっと容姿が変わらないように思える。歳を取らず同じ顔でいるところからすると、生身の人間ではないようにも思える。
しかし正体不明なだけで特に実害もなく、言葉をかけてくることもないので、Nさんはそういうものだと思って大して気にせず過ごしてきた。
一度だけ、西郷さんが他の人にも見えたことがあった。それが今のところ西郷さんを見た最後だという。
大学三年生のとき、Nさんに彼氏ができた。この彼と一緒に大学の近くを歩いているとき、前方から自転車に乗った男がやってきた。
西郷さんだった。
しばらくぶりに見たな、と思いながら注意も払わずにすれ違ったが、ふと気づくと隣を歩いていた彼がいない。
見回すと彼は後ろで立ち止まって西郷さんが去った方向を見ている。
今、西郷隆盛みたいな人がいた……。呆然と彼が呟く。
初めて自分以外にも見えた、とNさんも驚いた。彼には西郷さんについて話したことはない。
自分はそんな人には気づかなかったような素振りで、まあ世の中にはそういう人もいるんじゃないと返事すると、彼は首を横に振った。違うんだよ、普通じゃないんだ。そう言う。
彼はひどい乱視で、眼鏡をしていても輪郭が常にぶれて見えている。
それが、なぜか今すれ違った西郷さんだけはよく見えた。彼が乗っていた自転車は他と同じにぶれていたのに、西郷さんだけは全くぶれずにはっきりした姿で通り過ぎていったのだという。