濡れ足

Yさんが風呂上がりにリビングで寛いでいると、妻が怒った様子で呼ぶ。どうしたんだ、と廊下に行くと妻は口をへの字にして下を指差す。床に濡れた足跡がいくつも並んでいる。
あなた、濡らしたらちゃんと自分で拭いてよ。
妻はそう言うが、Yさんに心当たりはない。風呂を上がるときにいつも通り足も拭いた。こんなに濡れた足で歩きまわってなどいない。
俺じゃないと反論したが、あなた以外いないじゃないのと妻は取り合わずに風呂に入った。
しかし足跡の主が自分でないとすればあとは妻しかいないが、妻はこれから風呂に入るのだから違う。足跡を見ても妻の足より大きいから、妻の言う通り自分の仕業なのだろうか。
だんだん自信が持てなくなりながらYさんは雑巾で床を拭いた。するとわずかに磯の臭いが立ち上る。雑巾を鼻に近づけると確かに海辺のような臭いがしてYさんは顔をしかめた。
これ――海水か? そうならば風呂上がりの足跡ではない。
海まで数十キロ離れている。海水などどこから出てきたというのだろう。
そもそも誰の足跡なのか。玄関や他の部屋も覗いてみたが、特に異常はない。濡れていたのは廊下だけだった。
戸締まりもしっかりしている。誰かが濡れた足で入ってきたということではないらしい。
釈然としないまま、Yさんは雑巾を洗ってリビングに戻った。
数分して、風呂から上がった妻が金切り声を上げた。駆けつけると廊下で妻が腰を抜かしている。
床を見てYさんも驚いた。先程同様に濡れた足跡がいくつもあった。


ようやく落ち着いた妻が語ったことによると、風呂から上がって廊下に出たところで床に足跡があった。
Yさんがまだ拭いていないのだと思った妻はカッとなって、Yさんを呼ぼうとした。その目の前で新たに二つ、濡れた足跡がついた。
誰の姿もないのに、かかとからべたりと足跡が現れたという。今まさに濡れた足が床を踏んだかのように、二つ並んで同時に。


新しい足跡もやはり磯の臭いがした。
海で不幸に遭った人には心当たりがないが、とりあえずYさんは仏壇に線香を立てた。そのおかげかどうか不明ながら、その夜それ以上変わったことは起きなかったという。