スリッパ

大阪で働くNさんが出張で長崎に行った。ホテルで一泊したその夜のこと。
仕事疲れのせいか、何となく寝苦しくて夜中にふと目が覚めた。
ベッドサイドの時計を見ると午前二時。
寝る前に飲んだビールのせいか、喉がカラカラに渇いていたので水を飲んでから寝直そうとバスルームに入った。
水をコップ一杯呷って出てくると、ほぼ同時にドアをノックする音がする。
こんな時間に何だ?
ドアスコープから廊下を覗いたものの、そこには誰の姿も見えない。
長崎には初めて来たので個人的な知り合いもいないし、仕事で会った相手にもホテルの名前は知らせていない。
誰かが訪ねてくるはずもないし、ホテルの従業員ならば直接来るより先に部屋に電話をかけてくるはずだ。
ドアスコープの死角に隠れているのだとすれば、何かよからぬことを考えている相手かもしれない。
Nさんは居留守を使うことにして、息を殺したままドアから離れてベッドへ戻った。
横になって少しした時、またコンコンとドアがノックされた。
声をかけてくるわけでもない。一体何だというのか。
また数分経ってからコンコン。
更に数分してコンコン。
いい加減しつこい。何なんだ一体。
寝るのを邪魔されたNさんは一言文句でも言ってやろうと、U字ロックをかけたままドアを細く開け、廊下を覗き込んだ。
明かりのついた廊下には誰の姿も見えない。
何なんですかこんな時間に!?
声をかけたが返事もない。
もういなくなったのかな?
少し冷静になったNさんはドアを閉めようとしたが、その時視界の隅に何か動くものが入った。
廊下の床を白いものが滑るように動いている。
スリッパだ。ホテルの部屋に置いてある白いスリッパ。
誰も履いていないスリッパが、二つ並んで床の上をひとりでに動いている。
白いスリッパは廊下の向こうからすーっとやってきてNさんの部屋の前を通りすぎていった。
何だ今のは。
ドアを閉めたNさんはもう一度廊下を見てみる気にもなれなくて、そのままベッドに戻って寝てしまった。


翌朝目を覚ましたNさんは昨夜のことを思い出し、流石に見たものがおかしすぎるので、どうやら夢を見たらしいと判断した。
顔を洗って着替えて、朝食を食べに行こうと部屋を出たところで廊下の床に視線が向いた。
ドアのすぐ脇の壁際に、昨夜動いていたのと同じような白いスリッパが揃えて置いてあったのである。
まさか夜の……?
Nさんはそれを見ないようにして一階のレストランへ朝食を食べに行ったが、部屋に戻ってきた時にはスリッパはもう無くなっていたという。