眠い

印刷会社に勤めるKさんは当時、仕事が酷く忙しかった。
年末の繁忙期なことに加え、たまたま二人ほど急に社員が辞めてしまって人手が不足していた。
毎日が残業、休日出勤も当たり前で、Kさんは家に帰って倒れ込むように眠り、翌朝目を覚ますと入浴と食事を簡単に済ませてまた出勤するという繰り返しを続けた。
そんなある日の夜、帰宅したKさんは車を車庫に入れたものの、すっかり疲れていたので降りるのも億劫で、ハンドルを握ったままうつむいて溜息をついた。
はぁ……、眠い。
何となく独り言を呟いた、直後のこと。


「おやすみぃ」


背後からそんな声がはっきり聞こえた。妙に間延びした、ねちっこい喋り方の低い声だったという。
えっ、と弾かれるように振り向いたKさんだったが後部座席にも、座席の陰にも、そして車の外にも誰かの姿はない。
ただ、振り向いた瞬間からなぜか花のような甘い香りが車内に漂っていることに気がついた。
芳香剤など使っていないし、匂いのするようなものなど心当たりがない。
甘い香りは数日間ずっと車に残っていた。


それ以来、Kさんは車の中で独り言を漏らすのを控えるようになったという。