岩手の山間にある町で三十年ほど前にあったことだという。
初冬の明け方、道路脇の用水路で一人の老人が冷たくなっているのが発見された。
老人はその前夜にひどく酒に酔っているところを複数の人間に目撃されていたので、どうやら帰宅する途中に誤って水路に転落したものと推測され、警察の検分の結果も事件性はないと結論付けられたらしい。
老人はその数年前に妻を亡くして以来身寄りもなく、近所付き合いもほとんどなかったというが、気の毒な死に方を哀れんだ付近の住民たちがそれなりに立派な葬式を出してやったのだという。


しかしそれからしばらくの間、その老人がやってきて付近の家の戸を叩く――ということがあったらしい。


葬式が済んで三日ほど後の真夜中、老人が見つかった地点の近くにある民家の玄関を誰かが叩く音が響いた。
寝ていた住人が何事かと飛び起きて出ていったものの、玄関を開けると音は静まってそこには誰の姿もない。
なんだ悪戯か? と腹を立てながら布団に戻ると再びバンッバンッと大きい音がする。
ふざけるなよ、と急いで出ていったものの、やはり玄関を開けると誰もいない。
すっかりカンカンになった住人は今度は布団に戻らず玄関の三和土に座り込んでもう一度音がするのを待った。
今度は隠れる余裕もないように音がしたらすぐさま玄関を開けて悪戯している人物を捕まえてやろうと考えたのだ。
暗い中で息を潜めること数分、目の前で玄関がまた大きな音を立てた。
バンッ!
バンッ!
しかしどうも様子がおかしい。
大きな音は聞こえているのに、玄関の戸は全く揺れも震えもしないのだ。
古い木造家屋で玄関の立て付けも悪い。大きな音を立てるほど叩けばガタガタ揺れるはずなのに、そんな様子が全くない。
とはいえ、現に音がしている以上はそれを立てている犯人がいるわけで、それがどんな相手なのか顔を見てやらずには安眠を妨害された腹の虫が収まらない。
こちらの動きを悟られないようにゆっくりと戸に手をかけ、開けようとしたところで外からまた別の音が聞こえてきた。
戸を叩く音に混じって聞こえるのは人の声だ。何と言っているのかはわからない。
呂律が回っていないような喋り方で何事かをむにゃむにゃ言っている。
何なんだ一体、と思いながらも力を込めて一気に戸を開けた。
誰もいなかった。
ただ、玄関の戸にはいつの間にかべったりと黒い泥がなすりつけられて悪臭を放っていたのだという。


またその数日後の夜、今度は別の家で同様の騒ぎがあった。
更に数日後、その数日後……と二、三日おきにそれぞれ別の家で同じことが続いた。
深夜に大きい音で戸が叩かれるのに出てみると誰もいない。酔っぱらいのような声も一緒に聞こえる。
いつの間にか玄関に泥が塗りたくられている。
悪質な悪戯として警察に通報した者もいたが、見回りが少し強化されただけで目ぼしい成果はなかった。
酔っぱらいのような不明瞭な声が聞こえる、というところから考えて、もしかすると水路で死んだあの老人が出てきているのではないか、と言いだす者が出た。
塗られる泥も老人が落ちていた水路に溜まったヘドロではないか。
――本当にそうならとんでもねえ話だ。善意で葬式まで出してやったのにこんな迷惑をかけてくるとは恩知らずもいいとこだ……。
人々は口々に噂した。
戸を叩きながら何か言っているのは或いは何かを伝えたいのかもしれないが、呂律が回らぬ口では何を言っているのか全くわからない。意図がわからないから対処のしようもない。
神社や寺で貰ってきた御札を玄関に貼る家もあったものの、そんなことはお構いなしに夜中の音はあちこちで続いたという。
付近の住民たちはすっかりこの音に閉口し、今夜はうちに来なければいいがと祈りながら床につく毎日だったというが、老人の葬式から二ヶ月ほど経つ頃にはようやくどの家でも深夜に戸を叩く音は聞こえなくなったという。


老人が暮らしていた家はとうに撤去されて今は空き地になっているが、老人の墓は今もその町の墓地に存在する。