広辞苑

Nさんが就職して一人暮らしを始めてから半年くらい経った頃の話。
アパートの自室で寝ていると、なにやら嫌な夢を見て苦しさのあまり目を覚ました。
すると夢から覚めたはずなのにまだ体が重い。――と、いうより体の上になにか重い物が乗っていて苦しい。
なんだ一体、と力を込めて体の上の物をどかしてみると、それは一冊の分厚い辞書だった。広辞苑である。
しかしそんなものNさんは持っていなかったし、買った覚えもない。
新品ではなくケースの端が潰れていて使い込まれた雰囲気がある。誰かの持ち物なのかそれとも古本なのか。
中を開いてみたものの、何の変哲もない辞書で何かが挟まっていたりということもなさそうだった。
いずれにせよなぜそんなものがそこにあるのか、Nさんには全く見当がつかない。
玄関も窓も施錠されていたし、誰かに合鍵を渡しているということもない。誰かが勝手に入ってきたということは考えられなかったが、しかし誰かが辞書を置いていったとしか考えようがない。
……誰が何の目的で?
気味が悪かったもののNさんはとりあえずその辞書を部屋の隅に放っておいた。
誰かが取りに現れるとか悪戯を明かすとかそういうことはその後も一切なかったので、しばらく後に引っ越す時に他の本と一緒に古本屋に売り払ってしまったという。