合宿所

Mさんが学生時代に所属していたテニスサークルは、毎年夏休みに五日間の合宿を行うことになっていた。
合宿は県内の避暑地として有名な町で行われるのが通例だったが、Mさんが大学三年生の夏は手違いにより、毎年利用している合宿所の予約が取れなかった。
仕方なしに別の宿を探して予約を取り、行ってみるとこちらはこちらでなかなか悪くない印象だった。
部屋も綺麗でお風呂も広く、公営のテニスコートへもほど近い。従業員の雰囲気も明るく、廊下で会うといつも笑顔で会釈してくれた。
来年からも合宿所はこっちにしようか、などと話しながら五日間が過ぎた。
宿を立ち去る時には、従業員一同でMさんたちを見送るために出てきてくれた。
そこで部員の一人が「ご主人はお忙しいですか?ご挨拶したかったんですけど」と言い出した。
そういえば、とMさんも見回すとご主人らしき人は見当たらない。
それを聞いた女将さんは、怪訝な顔をして言った。
「主人はずっと不在なんですけれど……誰かとお間違えでは?」
ご主人というのはMさんたちが宿に到着した直後から、何度も廊下で行き会った初老の男性のことである。宿の半被を着て、Mさんたちと行き会う度に笑顔で深々と御辞儀をしてくれた人で、Mさんたちもてっきりこの人がご主人だと思い込んでいた。
しかし勘違いだったのだろうか。
「あ、じゃああの男の人はどなたなんですか?」
そうMさんが尋ねると、更に女将は怪訝な顔をする。
「ここにいる者でウチは全部なんですけど……」
あの男の人の年恰好や身なりを説明しても、やはり女将は首を捻るばかりだった。
やはり心当たりがないという。
釈然としないものを残しながらも、迎えのマイクロバスに乗ってMさんたちは宿を後にした。
去り際に窓からふと後ろを振り返ると、宿の玄関であの男の人が手を振っていたのが見えた。