三十八/ 木造校舎 その一(52/100)

Tさんが十五年前に教師として初めて赴任した小学校の校舎は、当時既に築五十年近い木造校舎だった。
窓や戸は枠が歪んで開け閉めすると大きな音が鳴る。
外壁に至っては何箇所も朽ちている始末。
歩くとギシギシ鳴る床は板が歪んで隙間が目立つだけでなく、子供が走ったり跳んだりした拍子に抜けてしまうことなどよくあって、Tさんも幾度となく修繕したという。
市内でも一番古かったこの校舎に、建て替え計画が持ち上がっていたのは当然だった。
旧校舎の取り壊し及び新築に備え、校庭の隅に業者の詰所であるプレハブ小屋が建てられたのが七月頭のこと。
おかしなことが起こり始めたのは、どうやらこの頃だったらしい。

七月のある日、Tさんが授業を終えようとしたその時、教室の中央付近の天井から、突然水柱が降った。
バケツ二、三杯分はあろうかという水が、一気に天井から滝のように落ちてきたのである。
真下で水を頭から被った子も、周りで見ていた子も、Tさんも、一瞬何が起きたのかさっぱりわからなかったが、まず水を被った子が泣き出し、次いで他の皆も騒然となった。水は緑色に濁った汚い水で、生臭い異臭を放っていた。
とりあえず後片付けを児童に指示し、濡れてしまった子は保健室に連れて行くように言って、Tさんはとりあえず真上の教室に向かった。
真上の六年生の教室で水槽でもひっくり返したのではないかと思ったのである。
しかし六年生は何事もなく授業を終わろうとしており、闖入したTさんをきょとんと眺めるばかりである。
二階の床と一階の天井の間にはそんな水が存在するような隙間はない。僅かに配線のための空間が数センチの幅あるだけである。
「いや、多分雨水かなんかが僅かな隙間に溜まって、それが何かの拍子に流れ出しただけだと思うんですけどね。古い校舎でしたから」
不思議なものなどない、というのが持論のTさんはそう言う。
しかし、一階と二階の間に雨水など溜まるものだろうか?

三十九/ 木造校舎 その二(53/100)

その少し後。
Tさんが掲示物を作るため、担任する教室で夜遅くまで作業していた時のことである。
やっと出来上がった時はすっかり夜も更け、同僚もみな退勤していた。
(すっかり遅くなってしまったな)
そう思って窓の外をぼんやり眺めていたが、どうも落ち着かない。
なぜだろうか、と思って数分間窓を見ていたTさんはやっと異変に気付いた。
窓ガラスに自分の姿が全く映っていないのだ。
Tさんがいるべきところには、背後にある廊下側の壁しか映っていない。
訳がわからず教室の中で場所を変えて窓を見てみたが、やはり映らない。
窓際にぴったり寄っても然りである。
どうしようもないのですぐ帰宅した。
家の鏡や窓にはちゃんと映ったという。

Tさん曰く。
「まあ、私も疲れてましたからそんなものを見たんですよね。気のせいみたいなものですよ。鏡に自分が映らないっていうのはすごく気持ち悪かったですけど」

四十/ 木造校舎 その三(54/100)

夏休みが明けてから少しして、研究授業があった。
Tさんも、自分の学級の授業を教育委員会の役員や近隣の学校から来た教員に見せることがあった。
その時、授業中の光景を後のレポートの資料として使いたかったので、偶々手が空いていた教頭先生に依頼して何枚か写真を撮ってもらった。
数日後、写真の出来を教頭先生に聞くとなにやら言葉を濁された。
ピンボケなんですかと聞くとそうではないと言う。
説明するよりも見たほうが早い、と言うことで早速見せてもらった。
写真は綺麗に取れていた。
授業風景は明確に記録されている。
しかし一点、おかしいところがあった。
教室の窓が、全てステンドグラスのようになっているのである。
模様はモザイクのように出鱈目な色の集合に過ぎないのだが、当然教室の窓はそんな色はしていない。
単なる透明なガラス窓のはずだし、研究授業当日もそれはそのままだった。
なぜこんなものが映ってしまったのか、教頭先生はしきりに首を捻っていた。

「単なる光の加減だったと思うんですけどね。もしくはカメラの不調だと思いますよ」
Tさんはそう言うが、窓だけがそんな映り方をするものだろうか。

四十一/ 木造校舎 その四(55/100)

また、こんなこともあったという。
授業中、教室のすぐ外の廊下を歩く音がする。
前述のように、この校舎の床板は誰かが歩くとギシギシ音を立てる。
平素から校長先生や用務員さんなどが授業中も廊下を通り過ぎていくことはあったので、それだけなら別段気にも留めなかったのだが、その時の音は教室の前の廊下を行ったり来たり早足で繰り返すので、じきに耳障りになってきた。
Tさんはとうとう我慢できなくなり、苦情を言おうと引き戸を開けた。
するとあれだけうるさかった音はピタッと止んで、廊下には人っ子一人いない。
廊下を右から左に見渡したが、何の気配も感じられなかった。
何やら夢でも見たような気分になって引き戸を閉めたその時、ばたばたばたっと駆け足で廊下の向こうから近づいてくる音がして、今閉めたばかりの引き戸の前で止まった。
今度こそ誰かいると思ってTさんはすぐに戸を開けたが、やはりそこには誰もいない。
異変を感じてざわつく児童をなだめて、今度は戸を開けたまま授業を続けることにした。
それ以降は足音も現れなかった。
不思議なことに、あれほどうるさかったはずの足音は隣の二年生の教室では全く聞こえなかったと後に聞いた。

例の如くTさんは言う。
「やっぱりね、気のせいなんですよ。だって誰もいなかったんですから」

四十二/ 木造校舎 その五(56/100)

こういうこともあった。
ある日、休み時間があと一分間くらいになった時にTさんは教室に戻ってきた。
教室の引き戸の位置からは廊下にある流しが見える。
その時、Tさんの学級のAという児童がそこで水を飲んでいるのが見えた。
Aは坊主頭の子供で、他の子とは見間違えようがない。
その姿を横目で見ながら教室に入ると、教室の中にAがいる。
あれ?随分早かったな。と思って何気なくもう一度水場を見ると、こちらにも坊主頭のAがいる。
廊下にいるAは既に水を飲み終わって、こちらに向かってすたすた歩いてくる。特におかしいところはない。
一方、教室の中のAも自分の席に座って近くの級友と話をしている。こちらもいつものAである。
流石にぎょっとしたTさんはそのまま引き戸のところで二人のAを見比べていたが、廊下の方のAはTさんのいるもう一方の戸を通り過ぎるその瞬間に見えなくなり、そのまま教室の方のAだけが残った。

Tさんは、
「まあね、そのときも私が疲れてたんですよね。そんなに気にするほどのことじゃあないですよ」
と笑った。


その後もいくつか変わったことを何人もの教員が体験したらしいが、冬休みの間に旧校舎が取り壊されてからはそういうことも全く聞かなくなったという。