ハイボール

Kさんが大学を卒業して最初に就職した会社は絵に描いたようなブラック企業だった。
激務と高圧的な上司のせいで一年も経たないうちにすっかり憔悴してしまったKさんだったが、当時は就職氷河期の真っ只中で、せっかくありついた就職口をすぐ手放すのも怖かった。
そんな中、大学時代の友人からメールが来た。友人たちで集まって飲もうという誘いだった。
しかしKさんは仕事で予定が合わない。どうせ無理だろうなと思いながら申請した有給は上司に実際握りつぶされた。


ある夜、いつも通り終電で帰宅したKさんはこれまたいつものようにコンビニ弁当とビールで食事を済ませたが、食べ終わった後に猛烈な睡魔に襲われた。
帰宅するとすぐに眠くなってくるのはよくあることだったが、この時はそれまで感じたことがなかったくらいに激しい眠気を感じていた。
せめてシャワーでも浴びてから寝ようと思ったのだが、立ち上がることすらできない。
そのまま弁当のトレーを押しのけながらテーブルに突っ伏してしまった。
何だかこれはおかしいぞと思いながらも瞼が下りてゆく。
このまま寝てしまうとそのまま目が覚めないのではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎったところで、トン、と顔の前に何かが置かれる音がした。
閉じかけた瞼を何とかして開くと、眼前に氷と琥珀色の液体が入ったグラスがある。緩やかに細かい泡が出ているあたり、炭酸入りのようだ。
どういうわけか、このときKさんはそれを手に取り、少し頭を起こしてグラスを口につけた。
液体を口に流し込むと、ウイスキーの味がした。ウイスキーソーダで割った、いわゆるハイボールだ。
Kさんはそうするのがごく当たり前のことのように一息でそれを飲み干し、ふうっと一息ついた。樽の香りが鼻に抜けた。
不思議なことに、先程の強い眠気は飲み干した酒に溶けるように失せていた。体も普通に起こせる。
今の眠気は何だったのか。いやそれより、どうして目の前にハイボールのグラスが現れたのか。
一人暮らしの部屋である。ハイボールなんて用意してくれる人はいない。
どこから出てきたんだろう、とKさんがテーブルを見ると、そもそもグラスなどない。
確かにたった今飲み干したはずの、たった今まで握っていたはずのグラスが見当たらなかった。
眠気に襲われて瞬間的に眠りに落ち、その間に見た夢だったのだろうか。ウイスキーの香りはまだ鼻の奥に残っているくらいなのに。


翌日、友人から電話がかかってきた。
飲み会は楽しかったという。集まった友人たちの近況を聞かされて、Kさんもその面々の顔が懐かしく思い浮かんだ。
今度はKさんの都合に合わせるから来てくれというので、Kさんも次は是非行くよと答えた。
電話で話すうち、そういえば――と飲み会中にひとつ変わった出来事があったことを友人が思い出した。
二軒目に行ったバーで、出てきたばかりの酒が触れてもいないのにグラスの中で減っていってさ、飲んでないのに空っぽになったんだよ。しょうがないからすぐにもう一杯頼んだけど。
何だそれ、霊現象か? 誰か連れてきちゃった?
アハハ、ハイボール好きな霊がいたのかな。
その言葉を聞いたKさんはギクッとした。
――飲まれたのはハイボールだったのか?
そうだよ。
Kさんは昨夜飲み干したハイボールの香りを思い出したが、それは自分が飲んだのかもしれないなどとは言えず、偶然の一致だろうと思うことにした。
仮に偶然ではなかったとしても、バーで出されたグラスがなぜ自分の眼の前に現れたのか説明がつかないからだ。


その時友人たちが集まったという店にKさんも後で足を運び、ハイボールを注文してみたものの、あの夜飲んだ一杯と同じ味かどうかはよくわからなかったという。