丸石

Eさんは大学三年生の秋に研究室の人間関係トラブルで精神的に追い詰められ、それが原因で体調を崩して休学し、茨城の実家に帰った。
何をする気力も湧かず、地元の友人に会う気にもならず、家でゴロゴロするかせいぜい近所を散歩するかという起伏のない日々をしばらく続けた。
散歩はいつも近所の住宅地を一周りするのがお決まりのコースだったのだが、ある日ふと途中で思い立って、いつも行かない方向に足を向けた。高校生までの間も行ったことのない地区だ。出身地なのに知らない街に入り込んだようで、新鮮な気持ちで進んでいく。
住宅の間の道路は次第に細い路地になって、左右にずっとブロック塀が続いていた。そのまま歩いていくと左右の塀が途切れて、墓地に出た。
墓地のむこうには立派なお寺の高い屋根が見える。こんなところにあんな大きなお寺があったのか、知らなかった。
誰もいない墓地を横切るとすぐに参道になっていて、立派な本堂の正面に出た。
本堂の扉は固く閉じていて、周囲にも人の姿はない。Eさんは本堂の前で何となく手を合わせて立ち去ろうとした。
すると足元にある石ころに目が留まった。まるで石と目が合ったようだった。
特別珍しい見た目をしていたわけではない。川原に転がっているような丸い、野球ボールくらいの石だ。稲妻のような白い筋が端のほうに走っている。
気まぐれでEさんはその石を拾い上げた。どういうわけか、そのままその石を持って帰りたい気持ちになった。どこが気に入ったか自分でもはっきりわからないのだが、とにかくそのままずっと持っていたくなった。
しかし持って帰っても何に使うわけでもないし、お寺のものを勝手に持ち帰るのも気が引ける。
名残り惜しかったが、足元に石を戻して境内を出て、まっすぐ家に帰った。来た道を戻りながら何度かあの石のことを考えた。
病んでいるせいで今までとは違うものが好きになったのだろうか。そんなことを思いながら家の玄関を開けて足を踏み入れたところで、何かが爪先に当たって転がった。
丸い石だ。端のほうに白い筋が走っている。
先程寺の境内に置いてきた石に間違いない。
思わず後ろを振り向いたが誰もいなかった。石が勝手についてきてしまったようにしか思えなかった。Eさんが石を気に入ったように、石のほうもEさんを気に入ってくれた。そんなふうに思ったEさんは石を拾い上げて玄関に飾った。


それからEさんは次第に調子を取り戻し、次の春から別の研究室に移って復学した。
今でも丸い石はEさんの実家に飾ってあるという。

愚痴

空調整備の会社で働くRさんの話。
事務所で書類仕事をしていたが、急にまぶたが重く感じられてきた。眠い。
睡眠不足というわけでもないのに、目を開けていられない。どういうことだろう。
眠気覚ましに立ち上がってお茶でも飲もうかと思ったのだが、立ち上がることもできずにどんどん上体が前のめりになる。
ついにパソコンのキーボードの上に突っ伏してしまった。
そこに、すぐ横から誰かが話しかけてくる。


「それなのに夫がいつもいつも――ねえ――っていうのに」


女の声だ。夫についての愚痴をくどくどと述べているようなのだが、眠気のせいか、はっきりしない喋り方のせいか、よく聞き取れない。誰だろう。


うわっ!


そこへ背後から別の叫び声がした。これは同僚の声だとすぐわかった。
その途端に眠気がすっと引いた。体を起こすことができたので愚痴が聞こえたほうを見たが、誰もいない。
背後の同僚はこちらを見て青い顔をしている。彼の話では、机に突っ伏したRさんにまとわりつくように、うじゃうじゃしたゴミの塊のようなものがあったのだが、それを見て思わず声を上げるとすぐに消えたのだという。
社長にこの話をすると面倒くさそうに手を振った。現場で変なもの拾ってきたんだろう。塩でも撒いとけ!
本当に塩を撒くと掃除が大変なので、とりあえず事務所の出入り口に盛り塩をしておいた。そのおかげなのかどうかはともかく、その後は何もなかった。

味噌汁

Uさんが大学生のときに母親が癌で亡くなった。
二年ほどの闘病の結果なので覚悟はしていたが、いざそうなってみるとやはりショックが大きい。
葬儀が終わり、遺骨をお墓に納めて、ようやく大学生活に戻ったUさんだったが、どうも以前のような調子が出ない。
勉強にもサークル活動にも身が入らず、午前中の講義などは頻繁に遅刻したり欠席したりするようになった。予定のないときはアパートに引きこもった。
そんな中で生活習慣が乱れたせいか、葬儀からひと月後に体調を崩した。喉が腫れて熱が39度近くまで上がり、ベッドから起き上がれない。
病院に行くこともできず、横になったまま眠ったり目覚めたりを繰り返しているうちに丸一日経った。まだ熱は下がらない。
このまま力尽きたらお母さんに会えるだろうか。ぼんやりする頭でそんなことを考えていると喉の渇きを覚えた。
熱のせいでベッドから下りるのも億劫で、ほんの数メートル先のキッチンまで行く気になれない。しかしもう半日は何も口にしていないことを思い出し、気力を絞り出して上半身を起こした。
「はい」
そこに横から水の入ったコップを差し出す手が伸びてきた。反射的にそれを受け取り、手の主に視線を向けると母だった。元気そうだ。
ああ、来てくれたのか。
安心してコップの水を飲み干すと、冷たくて美味しい。それで少し冷静になった。
ベッドの脇をみると誰もいない。しかし空のコップを握っているのは事実だ。
いつの間にか、部屋の中に味噌汁の匂いが漂っていることに気がついた。お母さんの作った味噌汁の匂いだ、と思った。懐かしい気持ちが溢れてくる。
しかし冷静に思い返してみると、水を差し出してきた人は母とは別人だった。知らない顔だった。
突然現れて水を差し出して消えたのも釈然としないが、それよりもなぜあの人を母だと思ったのかが不思議でならなかった。
味噌汁の匂いに包まれながら、Uさんはまた眠った。


翌朝には熱がすっかり下がったのでUさんは味噌汁を作った。
母の作ったものとは味も匂いも違ったが、これで何とか立ち直れるという気持ちになったという。

年越し当番

Nさんの家の近くに小さな神社がある。
地域で大事にされているお社で、年に何度か行事がある。そのひとつが年越しで、当番になった三人がお社の前で火を焚いて夜通し番をする。
Nさんもある年の年越し当番のひとりになった。夜十一時頃に社殿の前で火を焚きはじめると、日付が変わる頃に地域の人々が続々と集まってきた。
日付が変わる前と後の二度、人々が参詣を済ませると当番は彼らにお神酒を振舞う。それで人々は帰っていくわけだが、当番はそのまま夜明けまで社殿で過ごす。
時には都合によりもっと遅い時刻にお参りする人もいるというが、その年は夜明けまでもう誰も来なかったので当番だけでちびちびお神酒をすすりながら朝を待った。
雑談をしたりスマホを眺めたり、のんびり過ごしているうちにようやく明け方になってきたので、そろそろ片付けるかと外に出た。
空は明るくなりつつあったが、まだ日は昇ってきていなかった。
片付けると言っても大したものはない。焚火に使ったドラム缶を社殿の裏の納屋に片付けてしまえば、あとは持ってきたものを持ち帰るだけだ。
Nさんたちは今年もよろしくお願いしますと頭を下げあって、さあ帰るかと鳥居をくぐった。
「ちょっと」
後ろから野太い声がした。
振り返ると、鳥居のむこうに社殿を背にしてもうひとり立っている。
最初に目にしたのは胸元に垂れた長い髪だ。背がずいぶん高い。
見上げると、髭面の口元が笑っていた。鼻から上は鳥居に隠れて見えない。大きすぎる。
はっと息を呑んだときにはもう男は消えて、朝日が差し込んでいた。

 


なんとなく、それからは三人とも無言で解散した。

白いワンピース

Rさんの娘が小学生の頃のこと。小学校への通学路の途中に、一軒の空き家があった。
人が住まないまま何年も放ったらかしになっているようで、壁や屋根が一部破れているのが道から見てもわかる。どんなタイミングで更に崩れるかわかったものではない。実際、台風のあとには壁の穴が大きくなっていた。
娘が毎日通う道にそんな廃屋があるのは危なくて心配なので、同じ地区の人にもその家について何度か尋ねてみた。聞くところによると町内会でも何度か問題になった物件ではあるのだが、持ち主と全く連絡が取れないのでそのままになっているのだという。
そんなある日、Rさんの夫が仕事から帰るなり、こんなことを言った。
車で帰宅する途中、例の廃屋の前を通った。するとちょうどその廃屋の玄関から誰かが出てくる姿が、車のヘッドライトに照らされた。
白いワンピースを上品に着た老婦人だ。廃屋の持ち主か、その関係者だろうかと思った。
そこで夫はあることに気づいて首をひねった。廃屋の壁に穴がないのだ。いつの間にか修復されている。
視線を戻すと老婦人の姿はもうなかった。


――修復なんて、いつの間に? あんな廃屋を直したの?
夫から話を聞いたRさんはどうも腑に落ちないので、翌日の朝に見に行ってみた。
しかし夫の話に反して、壁も屋根も破れたままの外観だ。夫の見間違いだったか。
立ち去ろうとしたRさんだったが、少し変なものが見えた気がしてもう一度廃屋に目をやった。
壁に空いた穴の、その向こうの室内。
奥の壁に、大きな額が掛かっている。十数人が二列に並んだ集合写真のようだ。
外からだと詳しく見えないが、並んで写っている人がみんな白い服を身に着けているように見える。
夫の話を思い出した。この廃屋の玄関から出てきた老婦人は、白いワンピースを着ていたという。
写真の中の人々が着ているのはワンピースのように見えないこともない。ただ、近寄って確かめる気にはなれなかった。
今にも玄関から白いワンピース姿の老婦人が出てくるのを想像して、Rさんは足早にそこを立ち去った。


どういう経緯があったかは知らないが、それから程なくして廃屋の解体工事が始まった。
十年ほど経った今もそこは空き地だという。

金閣

看護師のRさんの話。
新人だった頃、先輩看護師と一緒に廊下を歩いていたときのことである。廊下の窓からは中庭の向こう側にもうひとつの病棟が見える。
その向こうの病棟の二階が、なぜか眩しい。窓越しに見える屋内が金色をしている。一面に金箔を貼ったようで、まるで金閣寺だと思った。
普段はもちろんそんな色ではない。金ピカの病院など見たことがない。一体何が起きているのだろうか。
足を止めて眺めていると先輩にどやされた。何してるの、早く行くよ。
いやでも、あの色おかしくないですか?
Rさんが向こうを指差すと、先輩はそちらを一瞥してからすぐまた歩きはじめた。
あれ、たまにあることだから気にしないで、ほら忙しいんだから行くよ。先輩は感動もなくそんなことを言った。
気にするなと言われても気になる。何しろ金閣寺だ。しかし先輩の言う通り、忙しいのも事実なのでそのときはそのまま通り過ぎた。
数十分後に用があって先程金色だった病棟に行ったときには、いつも通りの色に戻っていた。
あれって何か、患者さんと関係あったりするんでしょうか。ほら、患者さんが危ないときになにか起こるみたいな怪談あるじゃないですか。
後日、病棟が金色に見えた件について先輩にそう尋ねると、鼻で笑われた。
何だかわけがわからないものとそうやって関連付けたら患者さんに失礼でしょ。原因もわからないのに勝手に結びつけて解釈するのはよくないよ。
そう窘められて、それ以上は追求できなかった。先輩としてもこの件についてあまり進んで話したくはないらしい。
他の職員の中に何人も、見たことのあるという人がいた。しかし誰もその原因は知らず、特に実害がないからみんな気にしていないということらしい。
その後も年に一度か二度くらいは同様の現象に出くわした。
特に前触れとなるような出来事もなく、反対になにかの前触れとなっているようにも思えなかった。
ただ、患者さんたちからこの件に関して話が出たことは一度もなかった。職員にしか見えないということなのだろうか。
今もRさんはその病院で働いている。

雨上がり穴

日曜の午後、Nさんが四歳の息子と一緒に近所を散歩していたときのことだという。
昼過ぎまで雨が降っていたので道路にはところどころ水溜りができており、長靴を履いた息子は水溜りに踏み込んでは水しぶきを上げて喜んでいた。
これは帰る頃には泥だらけになりそうだな、と苦笑しながら息子のすぐ後ろを歩いていると、前触れなく息子の姿が視界から消えた。
はっと息を呑んで視線を落とすと、すぐ目の前の水溜りから息子の上半身が突き出ている。下半身は水面下だ。
息子本人はぼんやりした表情でこちらを見上げている。
慌ててその両脇を掴んで引き上げると、ようやく状況を理解したらしい息子は声を上げて泣きだした。
なんで道路に穴が開いているんだ、と困惑しながらNさんは水溜りに視線を戻したが、どうもおかしい。
水溜りの深さはどう見ても一、二センチ程度で、息子の下半身がはまり込むような穴があるように見えない。
Nさんは恐る恐る片脚を水溜りに入れてみたが、やはりそこには堅いアスファルトがあるだけだ。穴などない。
お前今どこに落ちたんだ、と息子の下半身をよく見ると、水溜まりに腰まで漬かったのが嘘のように乾いている。どういうことだ。
泣きべそをかく息子をなだめながら、Nさんはすぐ家に引き返したという。