相槌

深夜、Kさんは誰かの声で目を覚ました。隣で寝ている妻がボソボソと何か喋っている。
なんだ寝言か、と苦笑してまた目を閉じたが、妻の言葉はだんだんはっきりしてきた。
――そうなの。へえ、大変だったねえ。うん。うんうん。そうよねえ。
夢で誰かと話しているのか、さかんに相槌を打っている。随分はっきり喋っているものだから、妻が本当に眠っているのか疑問になったKさんはスマホで顔を照らした。
妻は目を閉じて口だけ動かしている。どうも本当に寝言のようだった。
――そう。だったらうちに来る? いいのよ遠慮しなくても。いいって。
声を聞いているうちに妻がそんなことを言った。夢で誰を招いているのだろう。
「ありがと、そうする」
そんな声が部屋の中で聞こえて、Kさんは思わず体を起こした。
妻の声ではなかった。もっと高い、少しかすれた子供の声だ。はっきり聞こえた。
誰だ、と明かりを点けてみたが部屋にはKさんと妻のほかに誰もいない。妻はもうそれ以上寝言を発さず、静かに寝息を立てていた。
翌日、妻がこんなことを言った。夢の中で小学生くらいの女の子が出てきてさ、うちの子になってくれるんだって。
Kさんはそうなんだ、女の子が欲しいの? と返事をしながら昨夜のことを思い出したが、それについては黙っていた。

 


その月のうちに妻が妊娠していることがわかり、やがて生まれてきたのは女の子だった。
あの夢の通りになったね、不思議、と妻は笑った。
Kさんはあの夜、部屋で聞こえた子供の声についてはずっと妻に話せていないという。

除夜

2008年末、除夜のことだという。
当時大学生だったKさんは、実家の自室でベッドに横になりながら漫画を読んでいた。
そのうちにうとうとしてきたが、このまま眠ればおそらく朝まで起きないだろう。
せっかくだから日付が変わるまで起きていようかな、と迷いながらもそのまま起き上がらずにいた。
そうしているうちにいよいよ眠くなってきたので、開いていた漫画本を胸の上に伏せてまぶたを閉じた。
その途端にふっと体が軽くなるような感覚に襲われた。エレベーターで下るときのような浮遊感だ。
なんだろうと思って目を開けると、視界が妙に狭い。部屋の天井が近いのだ。
どういうことかと顔を横に向けると、自分の体が天井近くにまで持ち上がっていた。横になった姿勢のままベッドの上に浮いている。
状況を理解できずに起き上がろうとしたところで、吊っていた糸が切れるように落下した。ベッドの上にまともに落ちて、衝撃でベッドの枠が割れた。
Kさんに怪我はなかったが、どういうわけか、壊れたベッドから身を起こそうとした拍子に脈絡のない光景が頭にひらめいた。
三つ年上の兄の結婚式の光景だ。
あまりに鮮やかにその光景が頭に浮かんだものだから、過去のことだったろうかと混乱したが、確かに兄はまだ独身だ。
付き合っている彼女がいるとも聞いていない。翌日に本人に尋ねたところ、彼女なんていないということだった。


ところが年が明けた2009年の2月、兄は友人から紹介された女性と付き合い始めた。そして半年の交際を経てその年のうちに結婚式を挙げた。
式の光景は大晦日にKさんの脳裏に浮かんだものとぴったり同じだったという。

川面

宅配業者のWさんの話。
担当する地域に川があり、短い橋がかかっている。配達の途中で何度もそこを通るのだが、橋の上から脇を見ると時々川べりに女の子が座っていることがあった。
ちょうどこの橋の先が交差点で、信号待ちでよくこの橋の上で停まるので、そのたびに何となく川に目を向ける癖がついた。
するとそこに時折、女の子の姿がある。
二十歳くらいの、短い髪の女の子だ。いつ見かけても同じ場所にしゃがみこんで、じっと川面を眺めている。距離があるから表情まではわからない。
見かける時間はまちまちで、午前中のこともあったし夕方のこともあった。
午前から午後まで配達して回っている身からすると、初めてその姿を見たときには暇そうで羨ましいと思った。何度も見るうちに疑問が湧いた。
一体何のために、あんなに熱心に川を眺めているのだろう。よほどあの場所が好きなのだろうか。

 

ある日の夕方、いつものように橋を通ったWさんはまた無意識に川に目を向けたが、このときはあの子の姿はなかった。
それで視線を前に戻そうとしたのだが、橋の下を誰かがくぐって歩いていくのが見えたのでそちらを見た。
あの女の子だとわかった。座っていないところを初めて見る。こちらに背を向けていつもの位置へと進んでいく。
生身の人とは思えなかった。いつもこちらに見せていた半身だけしかない。左半分だけの体でふらつきもせずに歩いている。
息を呑んでその姿を見ていると、後ろの車にクラクションを鳴らされた。いつの間にか信号が青だ。
慌てて前に進んだが、その後は橋で女の子の姿を見ることはなくなった。

祖父の手

埼玉に住むUさんが小学五年生のときだったという。
学校から帰る途中、後ろから名前を呼ばれた。声の方を見ると向こうから祖父が手を振りながらやってくる。
祖父は父の出身地である静岡に住んでいる。訪ねてくるという話は聞いていなかったが、家に来るところで行き合ったのだろうか。
久しぶりに会うので嬉しくなったUさんは、祖父と手を繋いで家に向かった。
家に着くまでの間、祖父はほとんど口を開かず微笑みながらUさんを見下ろしていた。
家の玄関を開けて、奥にいるはずの母に向けて、おじいちゃんが来たよー、と声をかけた。
すぐに出てきた母は、Uさんの姿を見て顔を青くした。あんた、何持ってるの?
そう言われて手を見ると、Uさんが握りしめているのは祖父の手ではなく、鳩の死骸だった。
慌てて外に放り投げた。
見回しても祖父の姿はない。
母が祖父に電話をかけると、彼はこちらに訪ねてきてはおらず、その日はずっと静岡の家にいたらしい。
しかし帰り道で一緒に歩いてきたのは、Uさんには祖父にしか見えなかったという。

先生の公園

Mさんが高校生の頃まで暮らしていた団地の一角に公園があり、子供たちから「先生の公園」と呼ばれていた。
暗くなってから一人でこの公園に残っていると、先生が現れて早く帰るように促してくる。従わないと追いかけてくるという。
小学校低学年の頃にMさんがこの噂を初めて聞いたときは、単に学校の先生が見回りをしているのだというくらいに思っていた。
しかしその後何度か噂を聞くうちに、どうもそうではないことがわかってきた。
その公園に現れる先生は本物ではないというのだ。一見すると学校で日々顔を合わせている先生に思えるのに、様子が普通ではないらしい。
しかも顔を合わせたときは知っている先生だと思っていたのに、後になってみるとどの先生だかわからなくなるという。
実際にそれに出くわしたという子は小学校でも同じ学年に数人いて、その一人がMさんと同じクラスにいた。
一度、詳しい話を聞いてみようとしたのだが、普段は活発なその子が公園の話になった途端に顔を曇らせた。
もうそのことは話したくないという。
一緒に話を聞こうとしたMさんの友達が、やっぱり嘘だったんじゃないの、と茶化すように言った。
するとその子は怒るでもなく、それでいいよ――とだけ言った。
むきにならないところがかえって真実味があって、何か、語りたくない何かが確かにあったのだと、Mさんはそれ以上追求できなかった。


高校生のとき、クラスの友達がMさんの家に遊びに来た。夕方まで部屋で遊び、外が薄暗くなってきたので友達が帰ることになった。
Mさんもコンビニに買い物に行くついでに、途中まで一緒に行くことにした。
団地を抜ける途中で例の公園に差し掛かった。そこを突っ切って行くと少し近道になる。二人並んで公園に足を踏み入れた。
集合住宅の谷間にある公園にはもう影が落ちてすっかり暗く、他に人の姿はなかった。友達と話しながら歩いていると、あっ、と友達が声を上げた。
あれ、〇〇先生じゃん。
高校の先生の名前を口にして友達が指差した方を見たが、どこにその姿があるのかわからない。
よく見えないよ、と視線を巡らせながら公園を通り過ぎた。
公園についての噂を思い出したのは、Mさんが友達と別れ、コンビニに行って帰宅したあとのことだった。
友達が指さして呼んだ先生の名前が、どうしても思い出せない。そのことに思い当たって愕然とした。
翌日に学校で会った友達は、公園で先生の姿を見たこと自体さっぱり覚えていなかった。

帰りたい

Mさんが一人暮らしをしていた頃、自宅のアパートの近くにある居酒屋によく行っていた。
ある夜も仕事帰りに少し飲みたくなって、ひとりでその店の暖簾をくぐった。
カウンター席に座り、瓶ビールとお通しが目の前に並んだところでなぜか、急に帰りたくなった。
居心地が悪かったわけではない。静かな訳ではないが、うるさいというほどでもない。いつも通りだ。
だが、なぜか衝動的に店を出たくなった。
落ち着かない気持ちを不思議に思いながらも抑えつつ、お通しの小鉢をかき込み、ビールを流し込んでからすぐ席を立った。味などわからなかった。
とにかく一秒でも早く出たい。足踏みしながら勘定を済ませると、逃げるように店を出た。
家路を早足で辿りながら、一体どうして自分はこんなに焦っているのだろうと不思議でならなかった。急ぐ理由は特にないし、本当はもっと店にいるはずだった。
訳も分からないまま、帰りたいと急かす気持ちが体を突き動かしている。
アパートの自室に入って靴を脱ぎ、ふっと溜息を漏らしたところで携帯が鳴った。
実家の近くに住む姉からだった。実家の両親が一酸化炭素中毒で病院に担ぎ込まれたという。自殺というわけではなく、ストーブの不完全燃焼が原因だった。
二人が意識を取り戻したのは、Mさんが駆けつけて丸一日経ってからのことだった。
タイミングから考えて、あのとき無闇に帰りたくなったことと無関係とは思えなかった。
やっぱり虫の知らせってやつはあるんだねえ、とMさんはしみじみ語った。

獅子

Nさんの実家の近くの神社に一対の獅子がある。鳥居の手前、参道の両脇に石造りの獅子が座っている。
江戸時代に建てられた神社だから獅子も江戸時代に造られたものだろうか。
小学生のころ、Nさんは友達とこの神社の境内で過ごすことが多かった。神職が常駐しているわけでもなく、参拝客の姿も滅多にないので、気兼ねなく遊び場所にしていた。
ある日いつものように友達と神社に行こうとすると、誰かの泣き声が聞こえた。鳥居のあたりだ。
何かあったのかなとNさんたちが駆けつけると、獅子の側で女の子がひとり泣いている。
よく見れば、女の子は獅子に右腕を噛みつかれている。
何だこれ。Nさんは目を疑った。
石を彫って造られた獅子が噛みつくわけがない。元から開いている口に腕を挟むことはできるだろうが、一対の獅子のうち口が開いているものは片方だけだ。
だが口を開いている獅子は参道の反対側にいる。女の子の腕を噛んでいる獅子はもともと口を閉じていたはずだった。どうして石の獅子が人に噛み付いたりできるのだろうか。
Nさんは女の子に、なんでこんなことになったのか聞いてみた。だが何を尋ねても女の子はぽろぽろ涙をこぼし、首を横に振るだけだった。
噛まれている腕を見ると、白い肌に石の歯が固く食い込んで赤くなっている。Nさんたちの力ではどうしようもなさそうだった。
大人を呼んでこよう。Nさんと友達はそう頷き合い、近くの民家で水撒きをしていた顔見知りのおじさんを引っ張ってきた。
しかし獅子のところに戻ってみると静まり返っていて、女の子の姿はどこにもない。獅子は元通り口を閉じていた。
おじさんは子供の悪戯だと思ったようで笑いながら帰っていったが、Nさんと友達はまったく腑に落ちない。
あの女の子はそれまでも見たことのない顔だったが、その後も再び見かけることはなかった。
今でもNさんは、一体何をしでかしたら石の獅子に噛みつかれるような事態になるのだろうかと時々考えるという。