帰りたい

Mさんが一人暮らしをしていた頃、自宅のアパートの近くにある居酒屋によく行っていた。
ある夜も仕事帰りに少し飲みたくなって、ひとりでその店の暖簾をくぐった。
カウンター席に座り、瓶ビールとお通しが目の前に並んだところでなぜか、急に帰りたくなった。
居心地が悪かったわけではない。静かな訳ではないが、うるさいというほどでもない。いつも通りだ。
だが、なぜか衝動的に店を出たくなった。
落ち着かない気持ちを不思議に思いながらも抑えつつ、お通しの小鉢をかき込み、ビールを流し込んでからすぐ席を立った。味などわからなかった。
とにかく一秒でも早く出たい。足踏みしながら勘定を済ませると、逃げるように店を出た。
家路を早足で辿りながら、一体どうして自分はこんなに焦っているのだろうと不思議でならなかった。急ぐ理由は特にないし、本当はもっと店にいるはずだった。
訳も分からないまま、帰りたいと急かす気持ちが体を突き動かしている。
アパートの自室に入って靴を脱ぎ、ふっと溜息を漏らしたところで携帯が鳴った。
実家の近くに住む姉からだった。実家の両親が一酸化炭素中毒で病院に担ぎ込まれたという。自殺というわけではなく、ストーブの不完全燃焼が原因だった。
二人が意識を取り戻したのは、Mさんが駆けつけて丸一日経ってからのことだった。
タイミングから考えて、あのとき無闇に帰りたくなったことと無関係とは思えなかった。
やっぱり虫の知らせってやつはあるんだねえ、とMさんはしみじみ語った。