ピンクのネクタイ

夜の十一時すぎ、自転車で帰宅する途中のこと。
利根川を渡る長い橋の途中で、人がひとりこちらに歩いてくるのが見えた。鮮やかなピンクのネクタイを締めた背広姿の男だ。
避けて走ろうと少し端に寄ったが、男の方もこちらを避けようとしたのか、同じ方に寄ってくる。
人とすれ違おうとすると時々こういうことあるよな、と反対側に寄ると、やはり男も同じ方に寄りながら近づいてくる。
わざと同じ方に来ているのか? 変なのに絡まれるのはいやだ。引き返したほうがいいだろうか。
そんなふうに考えていると、不意に男の姿が見えなくなった。
車道と歩道の間に柵はあるものの、人ひとりが身を隠せるような幅はない。隠れるような動きもなく、ただふっと煙が散るように消えたようにしか見えなかった。
周囲を見回しながら恐る恐る男が消えたあたりまで進んで、あるものが目に入った。
欄干に結び付けられたピンクのネクタイが、風にそよいでいる。
それを見た瞬間、わけも分からず気分が悪くなった。みぞおちの辺りが締め付けられるように重い。
吐き気を堪えながら急いでその場を離れた。帰宅する途中で堪えきれなくなり、道端に胃の中のものを全部吐いた。
どういうわけか、飲んだ覚えのない水ばかりたくさん出てきた。


後から思えば、街灯があるとはいえ深夜の薄暗い橋の上で、ネクタイだけが鮮やかなピンクに見えたのが奇妙だった。男の顔も背広の色も思い出せず、ただピンクのネクタイだけが鮮やかに印象に残っているのだという。

駅員

駅で電車を待っていた。
夜九時過ぎで人の姿は少なく、次の電車が来るまで十五分ほど。ホームの端で缶コーヒーを飲みながら、ぼんやりと時間を潰していた。
向かいのホームに利用客の姿はなく、駅員がひとり掃き掃除をしているだけ。その様子を見るともなしに眺めていた。
ゴミが落ちているようにも見えないのだが、人が行き来したり風で飛んできたりして埃が溜まるのだろうか。駅員はほうきで床を念入りに掃いている。
なんとなく違和感があった。
床を掃く音だけが規則的に聞こえる。何が違和感の原因だろう――とその姿をじっと眺めて気づいた。
駅員の顔が見えないのだ。
うつむいて制帽の陰になっていると思っていたその顔のあたりには、向こう側の壁が見える。
顔だけでなく、ほうきを持つ手もない。中身のない駅員の制服とほうきだけが、規則的な動きでホームを掃いている。
咄嗟に写真におさめておこうとしたものの、スマホを手にしたその数秒のうちに見失ってしまった。
それ以来、駅員に顔があるか確認する癖がついたという。

マネキン事故

Nさんの車好きの友人が数カ月分の給料をつぎ込んで青いスポーツカーを買った。

かなりの値段だったようだが、生活費を切り詰めた上で親にもいくらか出してもらってやっと買えたとのことで、Nさんが乗せてもらったときは土足で入るのを断られたくらい大切にしている様子だった。
ところが乗り始めて半年もしないうちに、事故で車に傷がついてしまった。路上でマネキンと衝突したと言って友人はすっかり腹を立てていた。

友人の話では、彼女とドライブに行って帰る途中に突然道路に白いマネキン人形が現れ、避けようとしたもののバンパーに当たってしまった。人ではなく間違いなく人形で、衝撃で道路脇に飛んでいくところは友人も彼女もはっきり見ていたという。
警察にも通報して現場検証が行われたものの、その跳ね飛ばされたマネキンが見つからない。バンパーに傷が付いているから何かとぶつかったことは明白だったが、人形も、もちろん人も発見されないので、何と衝突したのか全くわからない。
なにか野生動物と衝突して、その動物は逃げていったんだろうというのが警察の見解だった。
ところが友人はあれはマネキンに間違いなかったという。マネキンが急に出てきたんだと言って譲らない。
誰かが悪戯で道路にマネキンを置いたのかなとNさんが言うと、そういう感じじゃなかったと友人は首を振る。急にマネキンが視界に出てきたんだ、誰かが置いたとすればその誰かが見えなかったはずはない、そう力説する。
とりあえずNさんとしては災難だったなと慰めるしかなかった。


次にNさんがその友人と会ったのは二ヶ月ほど後のことだ。友人は以前会ったときに比べてはっきりわかるくらいにやつれていた。
何かあったのかと聞くと友人は少し黙りこんでから、マネキンが、と答えた。
あの跳ね飛ばしたマネキンが出るんだ。友人はそう言う。
車を運転していると、ふとした瞬間にあのマネキンが出てくるという。街中でも山道でも畑の中でも、場所を選ばず道端にマネキンが立っているのが見える。驚いて視線を戻したり引き返したりしてももう姿が消えている。そんなことが続いているのだという。
嘘だと思うなら一緒に乗ってみろ、と友人が言うのでNさんも助手席に乗って、軽くドライブすることになった。
行き先はNさんのリクエストで隣町の城跡になった。高台の公園になっていて、景色のいいところだ。
道中は何事もなく、車は城跡についた。駐車場に入ってエンジンを停めたとき、Nさんの目にふと白いものが入った。
駐車場の端に白いものが立っている。マネキン人形だ。
はっとしてドアを開けて外に出たときには、人形の姿は消えていた。
今、見たよな? 友人の言葉にNさんは頷くしかなかった。


友人は結局それからすぐに車を売ってしまったという。

ワイシャツ

Cさんが通っていた高校の近所に神社があり、そこであるとき首吊り自殺があった。
駅から高校までの間にある神社で、境内を通るといくらか近道になるので、Cさんも何度も通ったことがある。ある朝そこを通ろうとすると鳥居の前にパトカーが横付けされており、立入禁止になっていて、学校に行ってからどうやらあそこで自殺があったらしいと聞いた。
警察は翌日にはいなくなっていて入れるようになっていたが、何となく足を踏み入れる気にならず、次に鳥居をくぐったのは一週間ほど後のことだった。
放課後に友人と二人で駅に向かう途中、どちらともなく神社に足を向けた。朝に通ると同じ高校の生徒が他に何人も歩いているものだが、夕方はタイミングによっては人の姿がほとんどない。このときも境内にいるのはCさんたち二人だけのようだった。
境内には至るところに木が茂っているので、首吊りに使われた木がどれなのかはわからない。これだろうかと疑いながら見ればどれも怪しい。そもそも事件の痕跡などはすっかり片付けられているはずなので、見てわかるわけでもない。
少し不気味ではあったものの、気にしなければ以前と特に変わったところはないので、二人とも他愛のないことを話しながら境内の反対側に向けてゆっくり歩いていった。
すると境内を抜ける手前で頭上に白いものが見えた。高い銀杏の木の枝に、ワイシャツが一枚ぶら下がっている。
梯子でも使わなければ届かないような高い枝だ。風で飛ばされて引っかかったにしてはきれいに吊るされている。誰かが意図的に吊るしたようにしか見えない。
なんだろうねあれ、と話しながら通り過ぎようとしたが、どうも違和感があった。いくらか風があるのにワイシャツが全く揺れないのだ。周囲の木の枝は揺れているし、ワイシャツが吊るされている枝も揺れているのに、ワイシャツだけが微動だにしていない。
そもそもあれは本当に吊るされているのか。
どの方向から見ても、ハンガーが見えない。
枝の下の空間にワイシャツだけがじっと浮いている。
石でも投げてみようか、とふざける友人を引きずるようにして、すぐに境内を出た。


駅まで歩きながら、ワイシャツのあったあの木が首吊りに使われた木だったのだろうかと考えた。しかし首を吊るには枝が高すぎる。
縄をかけるのにも梯子か脚立が必要だろう。もっと低い木は境内にいくらでもある。あの木が使われたとは考えにくい。
だから首吊りとは無関係なのかもしれないが。
ただ――風にも全くそよがないで浮いているワイシャツは、とにかく異様だったとCさんは語った。

スクラップ

Kさんが職場に通う道の途中に自動車工場があり、そこに隣接してスクラップ置き場がある。
ここを通るとき、Kさんはいつも何となくイヤな感じがしていた。
見通しがいい直線で片側一車線ながら道幅も広い。走りづらいところでは全くない。しかしそこを通るたびになぜか寒くなったり、急にみぞおちの辺りがグッと緊張したりする。
一体ここに何があるんだろう、とそこを通るときに見回す癖がついた。


あるときここを通りかかったKさんがいつものように辺りを見回し、何か変なものを見たような気がして一度逸らした視線をスクラップ置き場に向けた。
ドアがなかったり、タイヤがなかったりする車がたくさん積み上げられている。
その車内に人がいる。
一人二人ではない。どの車にも、ぎっしり人が詰まっている。何をしているのかはわからないが、老人が多いように見えた。
イヤな感じがいつになく強く、吐き気さえ覚えるほどだった。
そんなところに人がいるはずがないのはKさんにもわかった。危険だから部外者は立入禁止のはずだし、関係者だって積まれた車に乗り込むなんてことはしないだろう。
Kさんは急いでそこを通り過ぎた。あれは見てはいけないものだという直感があった。


それから半年ほどしてこのスクラップ置き場で火災があり、積まれていた車の多くが撤去された。それを境にKさんがそこでイヤな感じを覚えることはなくなったという。

リクライニング

ある人が静岡から東京行きの高速バスに乗った。
平日の夜で、乗客はまばら。前後も空席なので、気兼ねなく寛がせてもらおうと、シートを後ろに倒した。
バンバン!
後ろからいかにも不機嫌そうにシートが叩かれた。
あれっ、後ろに誰かいるのか。いつの間に?
シートを戻してから後ろを覗いたが、誰もいない。その時座っていたのは後ろから三列目だったが、後ろ二列には誰一人いなかった。
じゃあ今叩いたのは誰だ?
シートの死角に小さい子でも隠れているんじゃないだろうかと下の方も見たものの、やはりいない。
何かのはずみで叩かれたような振動が伝わっただけなんだろうか。誰もいないのならやはり気を遣う必要はないだろう。
改めてシートを倒した。
バンバンバンッ!
やはり後ろから叩かれた。誰か後ろにいる!
しかしすぐに後ろを見ても姿はない。
釈然としないながらもシートを戻し、空席になっている反対側の窓際の席に移ってからシートを倒したが、今度は何事もなかった。
しかし降りるまでとても寛ぐ気にはなれなかった。

ドッペル父さん

大学生のWさんが夏休みに帰省した。
実家には両親と妹がいるが、帰省した四日間、なぜか父が二人いたという。
最初に気になったのは実家に着いた直後だった。
駅から父の運転する車に乗って家まで移動し、父が車庫入れしている間にWさんは家に入った。手を洗おうと洗面所に向かう途中、リビングに目を向けると父が座っている。
あれ? 早いな。
車庫入れをしていたのだから、これから玄関を開けて入ってくるはずなのに、どうしてもうリビングにいるのだろう。
どういうことかな、と思いながら手を洗っていると後ろで玄関が開く音がする。洗面所から出ると父が玄関から入ってくるところだった。
リビングには父はいない。
えっ、今お父さん家の中にいなかった? そう訊いたが、父も母もそんなわけないでしょ、と怪訝な顔をした。


こういうことが実家に滞在中何度もあった。
玄関から出ていった父が二階から下りてきたり。
目の前でトイレに入った父が庭で洗濯物を干していたり。
リビングでテレビを見ていたはずの父が洗面所にいたり。
同時に二人並んで現れるわけではないのだが、二人いるとしか思えないようなタイミングで父を見かける。
お父さんが二人に見えるんだけど、と母や妹に言ってみてもまともに取り合ってもらえなかった。
仕方がないのでWさんも気のせいということにして深く考えないようにした。


四日目の午過ぎ、大学に戻るWさんは駅まで父に車で送ってもらった。母と妹が玄関前で見送ってくれる。
車が走り出してから、Wさんはもう一度後ろを振り返った。
車の窓越しに、父が玄関に入っていく姿が見えた。
ドッペルゲンガーはよくないことの前兆であるともいう。Wさんは駅で別れ際に、お父さん怪我とか病気には気をつけてね、と伝えた。
その後Wさんは大学を卒業したが、今でもWさんのお父さんは元気だ。