アンチ・グラビティ

Sさんが高校生のとき、友人と一緒にバスに乗っていたところで、話の途中で友人が不意に言葉を切った。
どうかしたの、と顔を見ると友人は窓の外を見つめながらポカンと口を開けている。何かに驚いているらしい。
釣られて窓の外を見ると、すぐに変なものが視界に入った。
向こうに見えるビルの外壁に人がいる。灰色のスーツを着た男のようだ。
何だあれ、マイケルかよ……。友人がそんなことを呟いた。
その男は壁に対して45度くらいの角度で斜めに立っているのだ。外壁や窓の掃除ならば足場を組んだり上や下からゴンドラに乗ったりするのだろうが、そういったものはない。何かで吊っているようにも見えない。生身で壁に斜めに立っている。
友人が言う通りマイケル・ジャクソンの有名なパフォーマンスに似ているが、そちらは床に対して斜めで、今見ているほうは壁に対して斜めだ。
どういうこと? 呆然と眺めているとバスが進んで視界が手前の建物に遮られた。数秒でまた向こうのビルが現れたが、Sさんと友人はそこであっと声を上げた。
斜めの男が、ビルの反対側に移動している。最初はビルの左にいたのに、ほんの数秒で右側の壁に移った。どうやって移動したのかも謎だが、そもそも壁に斜めに立って何をしているのだろうか。
バスはそのまま進んで、短いトンネルに入った。その直前、斜めの男がそのままの角度で滑るように壁を下りていくところが見えた。
その後男がどうなったかはわからない。

おままごと

Wさんは結婚を期に、千葉に家を買った。
新居に引越して間もない頃、家の近くを歩いていると住宅地の中に空き地を見つけた。
周囲の家一軒分と同じくらいの広さだが、家の間にあってそこだけが空白になっている。手入れはされているようで、きれいに草を刈ってあった。
そこに小学生くらいの女の子が四人、向かい合って地べたに座りながらコップを持ったり何かこねたりしている。
このあたりの子かな、最近の子もおままごとするんだな、と微笑ましく思いながら通り過ぎようとしたが、なんとなく引っかかるものがあって目を凝らした。
違和感があったのは女の子たちの身なりだ。服が今風でなくどことなく古臭い。髪型もみんなおかっぱだ。
どうもその空き地だけが昭和の風景といった風情に見える。
本当にあの子たちは近所の子なんだろうか。
そこへ車が走ってきた。歩道のない道なので、Wさんは少し脇へ避けた。
それからまた空き地へ視線を戻すと、女の子たちの姿がどこにもない。それどころか空き地の景色が様変わりしており、きれいに刈られていたはずの草が至る所ぼうぼうに伸びている。
たった今目にしていた光景はどこへ行った。


後で町内会長に聞いた話では、その空き地は昔は溜め池があったところだという。宅地造成で埋め立てたが、そこに家を建ててもどうにも湿気が酷く、人が居つかないので今では空き地になっているということだった。

朝球

出勤途中に通る住宅街でのことだという。
何気なく視線を向けた電柱の上に、丸いものが乗っている。そのまま通り過ぎようとして、どうも気になって足を止めた。
バレーボールくらいの大きさの白い球だ。子供が遊んでいてボールが引っかかってしまったのだろうか。
あんな高さまでボールを飛ばせるだろうか。だが中学校の頃を思い返せば体育館の高い天井の鉄骨にボールが引っかかっていたこともあったので、中学生以上の力なら電柱の上にだってボールが届くのかも知れない。
そんなことを考えているとカラスが飛んできて、その電柱の近くに止まった。その途端に白い球がカラスを避けるように飛び立ち、道路を越えて反対側の家の屋根に下りた。
ボールが飛んだ!? UFO!?
白い球はそのまま小刻みにぴょんぴょん飛び跳ねながら屋根を飛び越えて見えなくなった。まるで生き物のような動き方だった。
それ以来外を歩くときに電柱の上をつい見てしまう癖がついたが、あの白い球を見たのはあれ一度きりだという。

路地もの

Fさんの職場の近くに細い路地があり、職場の三階にある休憩スペースの窓から見える。Fさんは休憩のたびに何となくこの路地のあたりを眺めるのが習慣になっていた。窓際のソファーに座って窓の外に視線を向けるとちょうどそのあたりが見えるのだ。
ある時、気がついたことがあった。その路地から時折黒っぽいものがスッと出てくる。ところが何が出てきているのかがはっきり見えない。
蚊柱をもっと濃くしたような、煙の塊のようなぼんやりした何かで、それが路地の奥からしみ出すように現れる。そして通りかかった人のすぐ後ろに付いていく。時には密着するようにまとわりつく。
付いていかれている本人も、周囲の通行者も特に気にしている様子はない。本人たちには見えていないのだろうか。
Fさんも何度かその路地の前を通ったことがあったが、そんなものを見たことは一度もなかった。その場にいると見えないだけで、実はその時も同じものが出てきていたのかもしれない。
あの何かに付いてこられるとどうなるかはわからない。悪いことがあるかもしれないし、何もないのかもしれない。
しかし気付いてしまったからにはもう気にしないようにすることもできない。それ以来Fさんはその路地のほうを見ないようになったし、路地の前も決して通らないのだという。

雨男

Sさんが高校生の頃、お父さんの運転する車で出掛けた帰りのことだという。
急に大粒の激しい雨が降ってきて、ワイパーを動かしても前が見えにくいほどの状況になった。するとお父さんはあれっ、と声を上げて車を道端に停めた。
お父さんは雨が吹き込むのも構わずに窓を開けて、すぐ傍を歩いていた男に声をかけた。
――おう久しぶり、ひどい雨だな、乗っていくか?
男はすぐに後部座席に乗り込んできた。Sさんの知らない大人だった。彼は傘を差していなかったのでずぶ濡れだ。
お父さんはSさんに紹介しようとしないし、男も自己紹介しないので誰なのかわからないが、とりあえずSさんがこんにちはと挨拶すると男は無言でうつむくように会釈した。元気がないというか、陰気な印象だった。
二人の会話からすると男はどうやらお父さんの同級生らしかった。会話といってもほとんどお父さんから一方的に話しかけているだけで、男は「ああ」「うん」くらいに相槌をうつだけで、それでもお父さんは気にせず饒舌に語りかける。昔からこういう関係なのだろうかとSさんは助手席で黙って聞いていた。家でのお父さんは口数が多い方ではないので、友達に対してはこんなに話すのかと意外でもあった。
少し走ると男が「ここまででいいよ」というのでお父さんは車を停めた。その頃には雨は小降りになっていて、男は後部ドアから降りるとすぐに路地に入って見えなくなった。
男が降りるとお父さんはまた普段のように口数が少なくなった。
さっきの人、友達? Sさんがそう尋ねると、お父さんはうん、いやまあ――と曖昧な返事をした。
そして少し黙り込んだ後に、ぽつりと言った。友達のはずなんだけど、どういうわけか思い出せないんだ。誰だったかな。
なにそれ、そんなに親しくなかった人なの? と聞くとよくわからないという。
雨の中を歩いている姿を見てすぐに誰だかわかったし、車に乗せている間はあれが誰だか疑いもしなかったのに、あいつが降りた途端によくわからなくなった。いつの友達だったんだろう。
お父さんはしきりに首をひねっている。
そんなのおかしいでしょ、とSさんが後部座席を振り返ると、シートはずぶ濡れの男が座っていたのが嘘のように乾いていた。

夜犬

Kさんが転勤のため茨城から栃木に引越した。
引越して二ヶ月ほどした頃、アパートの大家が来てこんなことを言う。Kさん、犬飼ってたりしてません?
すぐに否定した。ペット禁止のアパートだし、犬など数年来触ってすらいない。
大家の言うことには、他の住人からKさんの部屋で犬の声がうるさいと苦情が出ているという。
そんなことを言われても心当たりはない。潔白を証明するためにKさんは大家を部屋に入れて、犬などいないことを確かめさせた。
大家もそれで納得したようで、何かの間違いでしょうということになった。もう少し詳しい話を聞いてみると、犬の声は夜中に聞こえるという。
夜はKさんも部屋にいるが、犬の声など聞いた覚えがない。本当にそんな声が聞こえているのだろうか。おかしな人の妄想ではないのか。


そんなことがあってまた少し経った頃、部屋で寝ていたKさんは夜中に目を覚ました。壁の時計を見ると午前三時過ぎ。
すぐまた目を閉じたものの。何か部屋の中で物音がする。床の上をチャッチャッと何かが歩き回っている。
これが例の犬か、と思った。視線を横に向けると、暗い部屋の中を中型犬くらいの大きさの何かがさかんに行ったり来たりしている。暗いせいでよくわからないが、四足の動物なのは確かなようだ。どこから入ったのだろう。
聞こえるのはフローリングを爪がひっかくような足音なのだが、床にはカーペットを敷いている。直接フローリングの上を歩くような音がするのが奇妙だった。
もっとよく見ようと思って体を起こすと、驚いたのだろうか、その動物はテレビの方に飛び込むようにして消えた。
すぐに部屋の明かりを点けたKさんの目に留まったのが、テレビの前に置いたサボテンの鉢植えだった。
これは引越し後に友人から貰ったものだ。大して世話をする必要がないし部屋の彩りとして置いておくといいと友人が言うので、Kさんはそれをテレビの前に置いたまま、友人の言葉通り世話もせずにいた。改めて見てみると短いトゲがびっしり生えた感じが犬っぽくないこともない。
犬はこの鉢植えに飛び込んで消えたように思えた。犬の話を聞いたのも鉢植えを貰ったのも引越し後のことだ。
Kさんは鉢植えに向かって、夜は静かにしてくれと声をかけてから寝た。


その後Kさんはサボテンの世話の仕方を調べて、時々窓際で日に当てたり風に当てたりといくらか世話をするようになった。そのおかげなのかどうかは不明だが、犬に関する苦情はそれ以来聞いていない。

定期テスト

高校の定期テスト中のこと。
生徒たちが答案と格闘している前に、監督役の先生がいる。五十代半ばの社会科の先生だ。
先生は特に生徒たちに注意を向けるわけでもなく、本を読みながらじっと座っていた。
そこへ前のドアからスッと誰かが入ってきた。それに気付いた生徒たちが視線を上げると、入ってきたのは監督役の先生だった。
もともと黒板の前に座っていた先生ももちろんそのまま座っている。顔から服装まで全く同じだ。
同じ先生が二人になった。
生徒たちは狼狽えた。しかしテスト中でもあるし、騒ぎ立てるのも気が引ける。
後から入ってきた先生は落ち着いた足取りで机の間を進んでいく。こちらのほうがよほど試験監督らしい動きだ。生徒たちは目を合わせるのも気味が悪いので顔を伏せた。
元からいた先生はずっと動かずに本を読んでいる。何が起きているのか気付いていないのだろうか。
後から来た先生は教室を一周するとそのまま前のドアから出ていった。
テストに集中していた生徒はこのことに気付かなかったようで、二人目の先生を見た者はクラスの半数ほどだった。
後から気付いたことだが、二人目の先生が入ってきた時も出ていった時も、ドアを開け閉めする音を誰一人聞いた覚えがなかった。


あれはいわゆるドッペルゲンガーというやつか、もうすぐあの先生死ぬんじゃないか、などという噂が生徒の間に囁かれたが、それが現実になることはなく先生は定年まで無事に勤めたという。