海天狗

釣り好きのKさんはよく海辺に釣りに行く。
よく行くポイントでは同好の士と顔を合わせることも多く、そのうちの何人かとは連絡を取り合うくらいには親しい。
あるとき釣りに行くと他に釣り人はいなかった。港の端の突堤で、いつ行っても数人は釣りをしているような人気のポイントだ。珍しいこともあるものだと思いながらも独り占めしている気持ちで釣りを始めた。
この日は釣れた。
アジ、イワシ、サバ。
いつもより明らかに釣果が多い。他に釣り人がいないからなのか、それとも他に理由があるのかはわからないが、そんなに釣れたのは初めてのことだった。クーラーボックスの魚を見ながら、今夜は刺身で一杯やろう、いやフライもいいな、などと悦に入る。
そろそろ帰ろうかと思ったあたりで、誰かがこちらにやってくるのが目に入った。男がひとり、突堤をずんずん歩いてくる。
お面を被っているのかと思ったが、近づいてくるにつれてそうではないことがわかった。顔が塗ったように真っ赤だ。天狗や鬼の面のような鮮やかな色をしている。
しかし表情は穏やかで、別に鼻が長かったり牙を剥いていたりはしない。海をまっすぐに見つめながら歩いてくる。
そして背が大きい。二メートル近くはあるのではないか。
男はKさんには目もくれず、背後を通り過ぎると突堤の先端で立ち止まった。数分間そのままじっとしていたが、また踵を返すと来た時と同じ歩調で戻っていった。そしてその背中は防風林の中で見えなくなった。
おかしな格好をしていたが特に変わった行動はしていなかったし、単なる散歩だろうか。
それからすぐにKさんはその場を引き上げた。


家に帰ってクーラーボックスを開けたKさんは仰天した。先程釣った魚が、一つ残らずグズグズに腐って悪臭を放っていた。

午後のロッカー

小学校で昼休み終了直後のこと。
授業を始めようとしたところで、席が一つ空いていることに先生が気づいた。
その席のF君は午前中の授業には出席していたし、給食のときにもいた。保健室に行ったという話も聞いていない。
誰かF君のこと知ってる人は? と聞いたが児童たちは顔を見合わせるばかりだ。
そのうちにひとりの児童が教室の後ろの掃除用具入れのロッカーを指さした。ロッカーの扉にチェック柄の布が挟まってわずかに出ている。
確かF君がそんな柄のシャツを着ていた。さてはロッカーの中に隠れていて、シャツの裾が扉に挟まっているのか。
先生がロッカーに近づいていくと、布がズルッと中に引き込まれた。すぐに先生がロッカーを開ける。
F君はいなかった。いつも通り掃除用具が詰まっているだけで、チェック柄のシャツもない。
扉以外からロッカーを出ることは不可能だ。見ていた誰もが不思議がった。


後からわかったことだが、F君は昼休み中に友達と喧嘩してグラウンドの端に隠れて泣いていただけで、ロッカーのことなど知らなかった。
扉からはみ出していたチェックの布が何だったのか、誰にもわからずじまいだった。

腐臭

深夜、Sさんがベッドに横になったところで鼻をつく臭いに気がつき、反射的に体を起こした。
腐った魚のような嫌な臭いだ。
寝室にそんな臭いのするようなものは置かない。部屋の外から入ってくるのかと思ったが、窓から顔を出してもそんな臭いはしないし、家の中でも臭うのは寝室だけだ。
臭いの元はなんだろうと寝室を嗅ぎ回ってみたものの、それらしきものは見当たらない。ただ、ベッドの周りの臭いが一番きつい。
消臭剤と香水を寝室じゅうに撒いたがまだ臭いが消えないので、ベッドで寝るのは諦めた。
リビングのソファーに横になり、目を閉じながらぼやいた。一体何の臭いなんだ、まったく……。
「これはもうだめだな」
声がした。
家には他に誰もいない。しかし声はすぐ側で聞こえた。明かりを点けたがやはり誰の姿もない。空耳だったことにして無理に寝た。


翌朝、寝室に入ると香水のきつい臭いだけがあり、腐ったような臭いは消えていた。
リビングで聞こえた声といい、どういうことなんだろうと不審に思っていると電話があった。
実家の母からで、母の弟である叔父さんが昨夜亡くなったという。夜釣りに出掛けて川に転落したという話だった。
それを聞いてSさんははっとした。昨夜の嫌な臭いは川縁の臭いだったのだろうか。
あの臭いがした時刻と叔父さんが溺れた時刻が同じだったかどうかは、確認する気になれなかったという。

赤光

深夜、Fさんがベッドに横になってなんとなく寝返りをうったところで、赤い光が部屋に差した。まぶたを閉じていてもそんな感じがしたのだ。
薄目を開けると部屋の反対側に小さな赤い光が横一直線に並んでいる。数えたら八個あった。何かの機械のランプが点いているようだ。
しかしそんな光を出すような機械に心当たりがない。一体何が光っているんだろう。
気になってベッドの脇のスタンドライトを点けたが、同時に赤い光は見えなくなった。
部屋を見回してみてもあんなふうに光りそうなものはやはりない。
特に異常があるようでもないし、戸締まりもしっかりしている。少し気にはなるものの、その夜はまたすぐ寝た。


数日後、仕事帰りに車を運転していたFさんは、また横一直線に並んだ赤い光を目撃した。
といっても今度は何が光っているのかよくわかった。前の車のリアガラスの内側にある、ブレーキランプだ。
車のブレーキランプなど他にいくらでも目に入ってくる。しかしFさんにはなぜか、前の車のランプと数日前に部屋で見た赤い光が全く同じものに思えて仕方がない。
何かあるのかもしれない。どうにも嫌な感じがした。
とりあえず前の車から一旦距離を取ろうと、Fさんは道沿いのコンビニに寄り道し、ゆっくり店内を回ってから飲み物を買って出てきた。
一呼吸してから道路に戻り、少し進んだところで急に渋滞に突き当たった。普段はそこまで混まない道なのに、このときは二百メートルほど先の交差点まで二十分近くかかってしまった。
渋滞の原因は交通事故らしく、二台の車がフロントを酷く歪ませた状態で交差点の中ほどに停まっていた。
それを見てFさんはああそうかといたく納得したという。
事故車の片方は先程すぐ前を走っていた、あのブレーキランプの車だった。

窓の顔

Hさんは幼い頃から窓に顔が見えることがあった。
ふと気がつくと部屋の窓のひとつに大きな顔が映っている。ガラス窓を覆うほどの大きな顔。
男なのか女なのかもよくわからない。無表情に部屋の中を見つめているようでもあり、どこも見ていないようでもある。しばらくすると消える。
それに気づいた頃には周りの人間に伝えていたのだが、そんなものはないと大人も子供も口を揃えるので、あれは普通は見えないものなのだなと理解した。別に怖いとは思わなかったが、そんなわけであまりまともに見ないことにしていた。


小学校に入ってからも相変わらずそれは時々見えていた。教室だろうと廊下だろうと理科室だろうと職員室だろうと、何度もそれは現れた。そのたびにHさんは無視していた。
ところが無視しきれないことが一度あった。
ある日の給食の時間、配膳が終わった頃に教室の窓にそれが出た。
この日はなぜかいつもと表情が違った。なんだか怒ったように顔をしかめている。色もいつもより暗い。
いつもはどこか遠くを見るようなうつろな目つきをしているのに、このときは教室の中をじっと見つめているのがわかる。
なんだかその視線を受けていると、だんだん調子が悪くなってきた。胸に何か詰まったような気がして、とても何か食べるような気になれない。
席を立ってトイレに行き、どうも教室に戻る気になれないのでその足で保健室に行った。
しばらくベッドに横になっているとだんだん体調が戻ってきたので、昼休みの終わりごろに教室に戻った。Hさんのぶんの給食は片付けられていたが、窓の顔も消えていたので安心して午後の授業を受けた。


翌日、なぜかクラスに空席が多かった。先生の話では、みんな体調が悪くて休みだという。
後から知ったことだが、前日の給食が原因の集団食中毒だった。
あの顔がいつもと違ったのはそのせいだったのだろうかと、Hさんはそれ以来窓の顔の表情に気をつけるようになった。ただ、高校生になった頃からだんだん見る頻度が減って、大人になった今ではもうずっとあの顔を見ていないという。

お稲荷電車

都内の某駅でのこと。
電車に乗って発車待ちの間、閉じている側のドアにもたれて何気なく窓の外に視線を向けていた。
すると隣の線路に電車が入ってきて停まったので、隣の電車の車内を覗く形になった。
その車内におかしなものがある。
狐だ。稲荷神社の入り口の左右に置かれているような石の狐がひとつ、車内に立つ乗客の間にある。
誰か乗客が持ち込んだのだろうが、一体どういうわけでそんなものを電車で運んでいるのだろうか。
よく改札で止められずに持ち込めたものだ。
あまりの場違いさにしげしげと眺めていると、ふっと狐がこちらを向いて視線が合った。
動いた――石彫りの狐が?
あっと声を上げそうになったこちらを気にした素振りもなく、狐は興味なさそうにそっぽを向くと乗客の間をすり抜けて向かいのホームへと降りていった。
すぐにこちらの電車の発車時刻となり、狐の後を追うことはできなかったという。

ハイヒール席

Nさんが大学生のときのこと。
大学の図書館の二階で勉強していると、どこかからカツンカツンと固い足音が響いてくる。
ハイヒールかなにかを履いて歩く足音が二階のどこかを行ったり来たりしている。
別に図書館にハイヒールを履いてきてはいけないという規則はない。しかし図書館というのはあまり耳障りな音を立てていい場所ではない。
あまりうるさければ職員が注意するだろうとNさんは気にしないようにしていたが、一度意識するとどうしても耳につく。
何分経っても止める様子もないあたり、職員は気づいていないのだろうか。
だんだん我慢しきれなくなって、Nさんは職員を呼びに行くか、あるいは自分で直接注意するかと迷い始めた。
しかし足音の主はどこにいるのだろうか。足音は規則的に行ったり来たりをゆっくり繰り返しているが、一度もそれらしい姿を見ない。
疎らな利用者はどれも机についているか書棚の前で本を探している。誰も規則的に動き回ってなどいない。
一体どういうことだろうとNさんは立ち上がって書棚の方に向かった。すると途端にあの足音が聞こえなくなった。
立ち止まったのか。
Nさんは書棚の間を回って音を立てそうな靴を履いている者を探したが、一人もいない。
まあ音が止んだからいいかと思って机に戻ると、座ってすぐにまたカツンカツンと始まった。やはり歩き回っている姿は見えない。
立ち上がるとまた聞こえなくなる。
これはまさか、この席についているときにだけ聞こえるのではないか。
そう考えたNさんはすぐ隣の席に移ってみた。聞こえない。
先程の席に戻る。カツンカツンカツンカツン。
その日はもう勉強する気が失せてしまってすぐに図書館を出た。


後で友人にこのことを話すと、お前まだ知らなかったのかよ結構有名だぞあそこ、と笑われた。
学生の間では密かにハイヒール席と呼ばれているらしい。