発熱

高校のサッカー部でこういうことがあったという。
練習中に部員が一人、突然崩れ落ちるように倒れた。
呼吸が荒く熱が高い。意識はあるが顔が真っ赤で酷く苦しそうだ。
すぐ保健室に担ぎ込んでベッドに寝かせた。救急車を呼ぶほどではなさそうだが家に連絡してすぐ迎えに来てもらうことになった。
熱を出した部員と付き添いのマネージャー、保健の先生の三人が保健室で迎えが来るのを待っていると、どこからか足音が聞こえる。
ぴちゃぴちゃと床を裸足で歩き回る足音だ。
廊下を裸足で歩いても戸を閉めた保健室の中までは聞こえないはずで、実際その音はすぐ傍から聞こえる。
しかし歩いている本人の姿が見えない。誰も立っていないのに足音だけが保健室の中をうろついている。
マネージャーと保健の先生は怪訝な顔を見合わせた。何かいるのか?
保健の先生が足音に向かって言った。
保健室の中では静かにしなさい。無闇に歩き回らない。
足音がぴたりと止まった。先生の言葉が通じたのだろうか。マネージャーが息を呑んだ。
そこへ戸が開いて別の先生がやってきた。迎えが来たという。
声をかけられてベッドの部員が体を起こした。なぜか妙にすっきりした顔をしている。
どういうわけか、熱はすっかり引いていた。
本人の話では、ベッドに横になっている間に夢を見たという。
知らない場所にいて、周囲が真っ白。帰ろうとして歩き回っていると誰かに叱られた。歩き回るなという声がする。
誰かいるのか、と見回したが誰もいない。しかし何だか体が軽くなったように思えて、ふと気がつくと目が覚めていたという。

裸足坂

台風の近づく雨の日のこと。
Eさんが彼女の家に向かう途中、上り坂にさしかかった。
風も出てきたので傘を煽られないように気をつけながら坂を登っていった。
視線を路面に落としながら歩いていると、突然視界に裸足が現れた。道の脇に裸足の誰かが立っている。
目だけ動かしてそちらを見ると、薄汚れた着物の男だ。
時代劇みたいだ、とEさんは思った。雨はだんだん強くなるというのに、男は傘もささずに佇んでいる。
変な人だな、と関わり合いにならないようにEさんは視線を外してそのまま通り過ぎようとした。
すると妙なことになった。視界の端から裸足が消えないのだ。
また視線を上げると着物の男がすぐそこに立っている。視線を落として坂を登ると、視界の端に裸足がずっと見えている。
歩いて付いてくるのではない。足を揃えたまま、音もなくスーッと滑るようについてくる。
これはまずい。
なんだかわからないが普通ではない。彼女の家まで付いてこられても困る。
Eさんは踵を返すと早足で坂を下りた。振り返らずに最寄りのコンビニに駆け込み、雑誌を見るふりをしながらガラスの外を窺った。着物の男の姿はない。ここまでは付いてこないようだ。
念の為にあの坂を通らず、かなり遠回りして彼女の家に行った。
後で知ったところでは、その夜の嵐で坂の途中にあった古木が倒れたという。
あの裸足の男がその木だったのかなと、かなり古い木だったみたいで、だから時代劇みたいな服装だったのかなって。Eさんはそう語った。

浜伸び

夕方に浜で釣りをしていた人の話。
日が落ちかけて暗くなってきたのでそろそろ切り上げるか、と思ったところで視界の端に見慣れないものが映った。
砂浜の向こうに長く突堤が伸びている。その先端に、真っ黒なものが立っている。
先程釣りを始めたときにはあんなものは無かったはずだ。普段からあそこにあんなものは無い。
逆光でもないのに真っ黒にしか見えないのが奇妙だ。上から下まで同じ幅で、ドラム缶くらいの大きさだろうか。
好奇心からもう少し近寄って見てみようと、釣り道具を仕舞って突堤の方に歩きだした。
すると近づくにつれて、どんどん黒いものが大きく見える。近づいているから大きく見えているというわけではなく、実際にどんどん膨らんでいっているようだ。
それに気づいて足を止めたが、それでも黒いものはどんどん大きくなり、上に伸びていく。
見上げるほどにずんずん上に伸び、真上に覆いかぶさってくるほどまであっという間に大きくなった。
逃げ出そうにも足がすくんで動かない。
腰を抜かしそうになりながらも、こんなのはおかしい、現実じゃない、と自分に言い聞かせた。
巨大な黒いものはそのまま頭上を越え、空いっぱいに広がり、飛行機雲のように薄くなって消えた。
帰り道は星がいつにも増して綺麗に輝いていたという。

顔老婆

Eさんの近所に空巣狙いの泥棒が入った。
家の中が何箇所か荒らされていたが、確認してみると不思議なことに盗られたものはなさそうだった。
銀行の通帳や貴金属など金目のものは手つかずだし、他にも失くなったものがない。
警察に被害届は出したが、一体どういうことだろうとその家の人も話を聞いたEさんも首を捻った。
それから一週間ほどして犯人が自首した。
なんと泥棒に入られた家の隣の住人で、ギャンブルで借金を作り金に困った挙句の犯行だったらしい。
何も盗らなかった経緯を、Eさんは後で被害者から伝え聞いた。
警察に供述した内容は概ね以下のようなものだったという。


不在を狙って忍び込み、金目のものを探しているうちに緊張のためか喉が乾いてきた。
冷蔵庫になにか飲み物が入っていないかと、開けてみたところで仰天した。
老人の顔があった。見覚えがある顔だ。その家の、何年か前に亡くなったおばあさんだ。
顔だけのおばあさんが冷蔵庫に入っている。
何か言いたそうに口がぱくぱく動いたという。
慌てて冷蔵庫の扉を閉めたが、もう金目のものを探すどころではない。一目散に飛び出して自宅まで逃げ帰った。
ところがそれからというもの、どこにいてもあのおばあさんの顔が視界の隅にチラつくようになった。
自宅の冷蔵庫も開けられなくなった。
一週間経ってもう耐えられなくなり、自首したのだという。

シルエット

川崎で就職したEさんが長野の実家に帰省したときのこと。以前自分の部屋だったところは物置になっていたので仏間で寝た。
ところが寒くて夜中に目が覚めた。
布団はしっかりかけているのにどうにも手足が冷たい。手足が冷えているせいか、体がとても重たい。
どうも調子がおかしいな、と思いながら頭がはっきりしてくると、縁側に誰かが立っていることに気がついた。
雨戸を閉めていないので街頭の明かりがガラスから僅かに差し込んで、立っている人のシルエットを浮かび上がらせている。
女だ、と思った。髪が長くて体が細い。家族の誰かではない。
シルエットしか見えないからどちらを向いているのかわからない。こちらを見ているのか外を見ているのか、いずれにせよ電柱のように直立して微動だにしない。
強盗か、それとも変質者か。起き上がって逃げようと思ったが手足が痺れて力が入らない。
これが金縛りか――愕然としながらも縁側の人影から目を離せない。
すると反対側からさっと明かりが差し込んだ。その途端に体が動くようになり、慌てて体を起こす。
襖が開いて廊下に両親が立ってこちらを覗き込んでいる。
縁側に視線を戻すともう女の姿はない。
母が呆れたように言う。なにしてるのこんな時間に、うるさいよ。
両親の説明ではこうだった。寝ていると仏間の方からなにやら大声がして目が覚めた。よく聞いてみると読経のようだ。Eさんの声ではないようだが、Eさんが大音量で録音を流しているのだろうか。やめさせようと仏間の襖に手をかけると読経の声は止まったのだという。
両親が嘘をついているようには見えなかったが、Eさんには読経の声など全く聞こえていなかった。
父が言う。お前、帰ってきてからご先祖様に挨拶してなかったんじゃないか。線香あげておけ。
釈然としないながらもEさんは仏壇に線香を立て、手を合わせてから改めて寝た。
そのおかげかどうかはわからないが、今度は朝まで安眠できた。それ以来、帰省したときには真っ先に仏壇に手を合わせているという。

コーヒー好き

休日に本屋に行き、目当ての新刊を買ってから喫茶店に入ったときの話だという。
席についてホットコーヒーを注文し、早速新刊を読み始めた。
程なくしてコーヒーが運ばれてきたが、読み始めたところなのですぐには口を付けなかった。
夢中で一章を読み終えて、一息つこうとコーヒーに手を伸ばしたところで目を疑った。
カップが空だ。内側はコーヒーで濡れているが、すっかりなくなっている。
本を読みながら無意識のうちに飲んでいたのか、全然飲んだ気がしないな、と首をひねりながらお代わりを頼んだ。すぐにポットから二杯目が注がれる。
改めて一口すすると、香ばしい風味が口から鼻に広がる。旨い。
まるでその日初めてコーヒーを飲んだような感覚だ。やはり一杯目は自分で飲んだ気がしない。
本当に本を読みながら無意識に飲んでいたのだろうか。しかし本を読んでいる最中は誰も近寄ってきていなかったはずだし、自分以外には考えられない。
解せないと思いながら、もう一口飲もうとしたところで手が止まった。
口をつけていないのにコーヒーの水位がぐいぐい下がっていく。カップに穴が空いているのかと思ったが下に漏れているわけでもない。
どういうことだ、と不思議がっているうちにまたコーヒーはなくなってしまった。
一杯目も俺が無意識に飲んだわけじゃなかったのか?
コーヒーのお代わりを頼む前に、傍らのコップの水をコーヒーカップに注いでみた。
しばし眺めてみたが減らない。
まるで目の前の見えない何かが、コーヒーじゃなければ飲まない、と言っているようだ。
俺のコーヒーだぞ。誰だか知らんが勝手に飲むな。
水をコップに戻してもう一度コーヒーをお代わりしたが、今度はもう勝手に減ることはなかったという。

おんぶ

都内で電車に乗ったときのことだという。
平日の午後で車内は空いていた。座席に腰を下ろして発車を待っていると、隣の車両からドアを開けて誰かがやってきた。
三十代くらいの女性で、スーツをきっちりと着こなし、颯爽とした足取りでこちらに進んでくる。
しかしその肩の上と脇の下からは幼い子供の手脚が突き出しており、女性の歩調に合わせてぶらぶら揺れている。子供をおんぶしているらしい。
スーツをきっちり着た上で子供をおんぶしているのが珍しく思えて、その姿をなんとなく目で追った。
バリバリ働きながら幼い子供を育てているのか。大変そうだけどカッコいいな。
そんなことを考えながら眺めていたが、どことなく違和感がある。目を凝らしても、背負っている子供の頭が見えないのだ。
前に垂れている子供の腕から位置関係を考えると子供の肩や頭が見えるはずなのに、子供の手脚しか見えない。女性の背後のなにもない空中から手脚が生えているようにも見える。
どういうことだろう。子供をおんぶしているわけではないのか? じゃああの手脚はなんだ?
そう思っているうちに女性は目の前を平然と通り過ぎ、同じ車両の座席に腰を下ろした。背中の子供を気にした様子のない、無造作な座り方だった。
女性が座った途端に子供の手脚は見えなくなった。
何やら見ないほうがいいものを見たような気がして、目的の駅で降りるまでの間その女性に視線は向けられなかったという。