灰色の雫

Tさんは付き合っていた女性から、引越しを勧められた。
あの部屋何かあるかも、と言う。詳しく話を聞くと、こんな事があったという。
Tさんは彼女にアパートの部屋の合鍵を渡していたので、彼女は時々Tさんの部屋に上がって食事の支度や掃除をしてくれていた。
その日もTさんの留守中にやってきた彼女は、夕食の準備を始めた。
台所からは横目でリビングが見える。リビングにあるテレビを点けて、音声だけ聞き流しながら料理をしていた。
すると視界の端に何か動くものが映った。リビングの方だ。
そちらに視線を向けたが、特に変わったところはない。
鍋の方に視線を戻して少しすると、また視界の端に動くものが映る。リビングを見てもやはり異変はない。
目が疲れてるのかな、と思いながら料理を続けたが、やはり視界の端に何かが動いているのが見える。
見間違えではない。しかしまた視線を向けると見えなくなってしまうだろうと考えた彼女は、目を動かさずに様子を伺った。
リビングの天井の方から灰色の何かがゆっくりと下りてくる。視界の端だからはっきりとした姿は判別できないが、粘液の雫のように、天井から伸びてぶら下がってくる。
一体なんだろうか。もっとよく見てみたいと思うが、視線を向けると見えなくなってしまうだろう。彼女は手元だけは動かし続けながら、視界の端に意識を集中させた。
それはどんどん伸びて、床に近づいていく。
ピンポーン。
インターフォンの呼び出し音が鳴った。
はっとして玄関に向かったが、応答しても返事がない。ドアの覗き穴から外を見ても誰の姿もない。
――ぼたっ。
背後で重いものが落ちる音がした。リビングだ、さっきの灰色の。
しかしリビングを見ても先程同様に何もおかしなものはない。
ただ、不思議に静まり返っている。点けっぱなしだったテレビがいつの間にかオフになっていた。
灰色の何かが見えていたことは怖くなかったが、テレビが消えていたことがどうにも気味が悪かったという。


そんな話をされてもTさん自身は自室でおかしな体験をしたことは一度もなかった。
当初は彼女の言う通りに引越すつもりにはなれなかったが、それ以来彼女がTさんの部屋に来たがらなくなったので結局Tさんが折れた。半年後に彼女にプロポーズして新居に引越したという。