昔の男

物心つく前に父を亡くしたFさんは、ずっと母と二人で暮らしてきた。
母は懸命に働いてFさんを育ててくれた。時折機嫌の悪い様子を見せることはあったが、子供の前で不平を漏らしたり子供に八つ当たりしたりということは全くなかった。
Fさんが小学五年生の頃、その母が男と付き合い始めた。相手の男はFさんからも良い人に思えた。
温厚でいつも優しい表情を浮かべた男で、いつも紳士的に母に接していたし、Fさんのこともかわいがってくれた。母もその男のことをとても信頼しているようだった。
次第に男がFさんの家にやってくる頻度が増え、Fさんの方も母に連れられてその男のところに出かけていくことも多くなり、いずれ母はその男と再婚するのだろうかとFさんはおぼろげに予感していた。
しかしある頃を境にしてぷっつりとその付き合いが途絶えた。男が全く姿を見せなくなり、こちらから訪ねていくこともなくなった。
一度だけFさんは母に質問したことがある。この頃会わないけど、あの人はどうしたの。
それを聞いた母が酷く辛そうな顔をしたので、どうやら良くない別れ方をしたようだと察したFさんは、それ以来この件について触れることはしなかった。
その後母は二度と恋人を作らなかった。


Fさんは大学を卒業後に東京で就職した。母は仕事を辞め、Fさんが新たに借りたマンションで一緒に住むことになった。
そうしてしばらくした頃、Fさんは夜中に母の声がすることに気がついた。深夜、母の寝室からボソボソと声が聞こえる。ほとんど毎晩だ。
母の寝室にテレビはないのでラジオかと思ったが、注意して聞くと響いてくるのは母の声のようだ。
寝ぼけているのだろうか。
はじめはそう考えていたFさんだったが、母の声に交じって男の声も聞こえてくることに気が付いた。どうも母は誰か男と話しているように思える。
誰かが訪ねてきた形跡はない。一体誰と話しているのか。気になったFさんは母に直接尋ねてみた。
しかし母は全く心当たりがないという。夜は早く寝てしまうからそんな遅くに起きてなどいない。そんな夜中に誰かが来るはずもないし話などしていない、というのが母の答えだった。とにかく心当たりがないの一点張りである。
それならあれは自分の思い違いで、外から聞こえてくる別の声を母の声と間違えたのだろうか、とFさんが考え始めた矢先のことである。
夜中、そろそろ寝ようとしたFさんがふと視線を上げると、誰かが母の寝室から出てきたのが見えた。
はっとして目を凝らすと、その姿には見覚えがある。Fさんが小学生のときの、母の恋人だ。昔のままの姿でそこにいる。
男は音も立てずに玄関の方に進み、すっと見えなくなった。母の部屋のドアも玄関も、ずっと閉じたままだった。
Fさんの頭の中で話が繋がったように思えた。……母の部屋から聞こえていた声は、あの男と母が話していたのか。
しかしあの現れ方と消え方は普通ではない。生きている人間とはとても思えなかった。それにずっと前に別れた男が、なぜ今頃になって現れたのだろう。
我慢できなくなってFさんは見たものについて母に話した。母は驚いたようだったが、否定しようとはしなかった。
ただ俯いて言った。ごめんね……もうそういうことないようにするから。
母がそれから何をしたのかFさんにはわからなかったが、それ以降夜中に話し声が聞こえることはなくなったという。