失くした眼鏡

Oさんはある朝起床して顔を洗い、眼鏡をかけようとしたが見当たらない。
ひどい近視でかなり乱視でもあるOさんは、眼鏡がないと外出すらままならない。いつもは寝る前に机の上に眼鏡を置くことにしているのだが、この朝にはそこにもないし、マンションの自室のどこを探しても見つからない。
前夜には確かに眼鏡をしたまま帰宅した。寝る直前に本を読んだ覚えがあるからその時までは確かに眼鏡をかけていたはずなのだ。
戸締まりはしっかりしてあるから泥棒が盗んでいったということも考えにくい。他に失くなっているものもなさそうなので、眼鏡だけ盗む泥棒というのもおかしい。
だがどうにも見つからないし、出勤する時刻が近づいていたので仕方なくその日は予備の古い眼鏡をかけることにした。


昼頃に実家の母親から携帯電話にメールが入った。写真が添付されていて、そこに写っているのはどうもOさんの眼鏡に見える。
これ、あんたの眼鏡じゃない? 今朝うちに来た人が置いていったんだけど。
Oさんは実家の山口から離れて埼玉で暮らしている。前夜使った眼鏡が山口の実家にあるはずがない。
しかし写真の眼鏡は確かにOさんが普段使っているものと同型のようだ。
もちろん母がイタズラで同じ型の眼鏡を用意したという可能性はある。だがそもそも眼鏡が失くなったことを母には伝えていない。そして現実にOさんの部屋から眼鏡は失くなっており、よく似た眼鏡が実家にある。
とりあえずOさんは次の週末に実家に行ってみることにした。
実家で母から見せられた眼鏡は、間近で見てもいつものOさんの眼鏡そのものだった。見慣れた傷もついている。かけてみると度もぴったり合っている。やはりこれは部屋から失くなっていた眼鏡なのだろうか。
一体どういう経緯で眼鏡が埼玉から山口に移動したというのか。
母の話によると、こんなことがあったという。


その日の朝、九時頃に父を訪ねてきた人がいた。
母はその客を父の友人だと思ったという。
実際、父は客を上機嫌で迎え入れ、客間で小一時間ほど話し込んでいた。居間にいた母のところにも二人の笑い声が時折聞こえてきていたという。
しばらくして静かになったと思ったら居間に父がやってきた。お客さん帰ったの、と母が訊くと父は釈然としない顔で曖昧に頷く。
何の知り合いなのあのお客さん、という母の質問に父の顔はますます曇った。何の知り合いなのかよくわからないと父はいう。
あんなに楽しそうに話していたのに?
父も客と向かい合って楽しく会話をした記憶は確かにあるのだという。だが、その話の内容どころか客の顔さえはっきり思い出せない……と父はしきりに首を捻った。思い返してみると、母もつい先程見たはずの客の顔が思い出せない。一体誰が訪ねてきたのか。
父の話では、会話がどう終わったのかもよくわからないうちに客は父の眼の前からいなくなっており、客間のテーブルの上には、すっかり冷めたお茶と並んで眼鏡がひとつ置かれていたという。
その眼鏡に見覚えのあった母はOさんに連絡してきたということだった。


マンションの部屋からOさんの眼鏡が失くなったことと、実家に現れた客が眼鏡を置いていったことの間のつながりは全くわからないが、とりあえずOさんはその眼鏡を持って埼玉に戻った。今でもその眼鏡を使っている。