旧合宿所

Fさんは高校でギター同好会に所属していた。
ギター同好会の活動は教室棟からグラウンドを挟んだ向こうにある建物で行われていた。教室や職員室から離れているから練習で多少大きい音を立てても迷惑になりにくいというわけである。
その建物はかつては合宿所として使われていたとのことで、ギター同好会が練習に使っている大部屋以外にも和室や浴室、台所などが備えられていた。
「ここのお風呂、出るんだって」
部活動中に先輩がFさんに向かってそう言ったのは夏休み直前のことだった。
出る、というのが何を指しているのかはFさんにも想像が容易かった。幽霊か何かということだろう。
確かにその旧合宿所の浴室は北側で日中でも薄暗く、何か出そうな雰囲気はある。
先輩は見たんですか、と尋ねると首を横に振った。でも、と先輩は言う。
「この建物が合宿所として使われなくなったのって、出るかららしいんだよね」
「合宿所として使えなくなるくらいとんでもないことが起きるなら、部活に使うのだってまずくないですか」
Fさんがそう聞き返すと「それは私も思ってた」と先輩も頷いた。
出ると言われてもそれまで特に変わった出来事は無かったわけで、本当に出るなら面白そうではあるものの、尾ひれの付いたありがちな噂に過ぎないのだろうとFさんは考えた。
その時はそれで話が有耶無耶になったのだが、また少しして、夏休みの練習中に同じ先輩が悪戯っぽく笑って言った。
「この前ここに出るって話したでしょ。今日はいいものを持ってきた」
先輩が取り出したのはビニール袋に入った白い粉だ。近くでよく見るとザラッとした荒い結晶で、片手で握ったくらいの量が袋に入っている。
塩か。
先輩が言うにはただの塩ではないという。先輩の親戚がお祓いを受けた時に使った清めの塩を分けてもらったとのことだった。
「これをお風呂の所に盛り塩しておけばいいと思って」
笑ってそう言うところを見ると先輩も本気で幽霊を怖がっている訳ではなさそうだが、Fさんも塩でお清めするところなど見たことはなかったので興味は湧いた。
先輩は塩が入った袋を片手に部屋を出ていく。Fさんや他の部員数人もその後についていった。
浴室は一階の端にある。先輩は意気揚々と脱衣所を通り抜け、浴室の扉を開いて、そのまま身動きしなくなった。
……何だ?
無言で固まっている先輩の顔を覗き込むと、口を半開きにして手元を見つめている。
視線を落とすと、先輩の持つビニール袋の様子が変わっていた。
中の塩がすっかり水浸しでドロドロになっている。いつの間に?
つい今しがた見た時には袋の中身は確かに乾いた塩だった。それを見てから浴室に直行したのだから、水など入れる機会はない。
先輩が悪戯でそんなことをしたのだとしても、すぐ後ろを歩いていたFさんからはそれらしき動きは見えなかった。廊下を歩いている最中は先輩は袋を持った手を下ろしていたから、水を入れようとしたならばすぐにわかったはずだ。
だとすると浴室に入った途端に袋の中身が水浸しになったとしか思えないが、そんなことがあるだろうか。
結露で説明が付く程度の水の量ではない。
一体どういうことだろう。やはり浴室には何かがあるのか。
それ以降部員たちはあまり浴室に近づこうとしなくなり、話題にすることさえなくなった。


しかしどうにも納得がいかないFさんはそれからも何度か浴室内に盛り塩をしてみた。プラスチックの小皿に塩を盛って何箇所かに置くという方法だ。
先輩が塩を持って入ったときのようにすぐ塩が水浸しになるということはなかったが、盛り塩をしてから時間を置いて浴室に確認に行ってみると小皿の中はすっかりドロドロになっていて、それは何度試しても同じことだったという。