灰色

Nさんが彼女の住むマンションでくつろいでいた時のこと。
つい今しがたまで一緒にいた彼女はお風呂に入っていて、部屋にはNさんがひとりでソファーに寝そべっていた。
彼女の作ってくれた夕食も満足で、Nさんはすっかりいい気分になってついつい眠くなってしまう。
はっと気がつくとまだ彼女は浴室から出てきておらず、大した時間は経っていないようだったが、何やら部屋の様子が違う。
と言っても見回した部屋の配置は先程までと何も変わってはおらず、確かに彼女の部屋そのものではある。
違和感の正体は色だった。壁もテーブルもカーテンも、すべて単調な灰色になっている。
居眠りする前はそんな色ではなかった。もっと多くの色があったはずだ。
寝起きで目がおかしくなっているのかと両手でまぶたをこすったものの、やはり部屋中が灰色にしか見えない。
これはどうしたことだろう。にわかにうろたえたNさんは浴室の彼女を呼ぼうとソファーから腰を浮かせた。
するとNさんの正面の壁の真ん中に、ぽつりと一つだけ小さな赤い点があることに気がついた。
それはあるいはその時急に現れたのかもしれなかったが、灰色の部屋の中でそれだけが鮮やかな赤に見える。
なんだこれ、と近寄ろうとしたNさんの眼の前で、その赤い点はみるみるうちに大きくなり、ラグビーボールのような形に膨らんだ。
大きさもちょうどラグビーボールくらいになったそれは、真っ赤な唇だった。
口紅を塗ったような赤い大きな唇が壁から浮かび上がっている。皺の一つ一つまでがはっきり見えた。
えっ、と度肝を抜かれたNさんは思わずそちらに手を伸ばしかけたが、その手の先で大きな唇は何かを言うように動いた。
開いた唇の間には、濡れて光る大きな歯が並んでいた。
口の中もあるのか、とその歯の白さに目を奪われてしまったNさんだったが、唇は彼に何かを語りかけるように動き続けた。
しかしそこから声は聞こえない。
何かしゃべってるのか、とその動きを見つめるNさんだったが、その時背後で浴室の扉が開く音がした。
次の瞬間。


バッチーーーーーーン!!


部屋中に何かが弾けるような大きな音が響き、部屋の色が一瞬で元に戻った。
それと同時に壁の大きな唇も消えてしまっている。
更には部屋中の電気製品、テレビ、パソコン、エアコン、その他、全ての電源がひとりでに、しかも一斉に点いた。
浴室から出てきた彼女はその様子を見て、何やってんの!とNさんをにらんだ。
すべてNさんがやったと思ったらしい。
Nさんはひとつひとつの電源を切りながら弁解したが、見たものをいくら説明しても彼女には信じてもらえなかったという。