トートバッグ

ある朝、Sさんが出勤のため駅で電車を待っていた。
しかしその朝は目覚めた時から何となく頭が重い。
どことなくだるい感じもあり、まさか風邪を引いちゃったかな、と気分まで重くなってしまっていた。
するとすぐ横から誰かが話しかけてくる。
(なあ、あんた調子が悪いのか?)
少しかすれた男の声だ。
声の方を向いたものの、こちらを見ている人は誰もいない。
あれ?と周囲を見回したものの誰なのかわからない。
知り合いの姿もないし、自分へかけられた言葉ではないのだろうとSさんはまた前に向き直った。
するとまた同じ声がする。
(なあ、こっちだって。聞こえるだろ?)
どうもやはり自分に向かって話しかけてきているように思える。
だが、声が聞こえてきた右隣りにいるのは若い女性だし、こちらを向いているわけでもない。
彼女が声をかけてきた人物だとはとても思えない。
(ここだよ、ここ)
声はその女性の口からではなく、女性が肩から下げているトートバッグの辺りから出ているようだった。
(あんた、風邪かい?忙しいかもしれんが、今日は休んだほうがいいんじゃないの)
やはりバッグの辺りから声がする。どうも馴れ馴れしい話し方だ。
Sさんは呆気にとられながら声のする辺りを凝視してしまった。なんでバッグから声が?
するとその視線に気付いた隣の女性がこちらを向いた。
他人の荷物をじろじろ見ていたのがうしろめたかったSさんは咄嗟に会釈したが、女性の方はなぜか恐縮したような様子で「すみません」と頭を下げた。
そして女性は肩に下げたままのトートバッグの口を覗きこみ、焦ったような小声で「ダメ、やめて」と呟いた。
何か話しかけてきたものが本当にあのバッグの中にいるのか?
しかしバッグは人ひとりが入る大きさではない。一体何があそこに……?
すぐに電車が到着してその女性を含めた列が乗り込んでいったが、Sさんは何となく同じ電車に乗るつもりになれず、十分ほど待って次の電車で出勤したという。