落描き

Hさんが高校生の頃、通学路の途中に大きな倉庫があった。
この倉庫の落描きにHさんが気が付いたのは登校時だった。
通学路から小川を挟んだ対岸にその倉庫がある。
歩きながら何となくそちらを見上げて、屋根に何か描かれているのが見えた。
洋梨のような輪郭に点と線で単純な目鼻口が描かれている。子どもの落描きのような絵だ。
ピンクの塗料を刷毛か何かでべったり塗ったようで、はっきりした線で大きく描かれており、二階建て倉庫の屋根を下から見上げたHさんからもよく見えた。
誰かの悪戯だろうか。
それとも倉庫の人が何かの目的で描いたのか?
倉庫の屋根は高いし、屋上に出られる出口がありそうには見えない。かなり長い梯子か何かを使わなければ屋根には上がれそうにないから、子どもの悪戯には思えない。描いたのは大人だろう。
それにしてもあんな下手くそな絵を……。と呆れながら通り過ぎた。
その日の夕方、同じ場所を通った時にはもう落描きは消えていた。


また少し経ったある朝、Hさんはまた倉庫の屋根に落描きがあるのを見た。
前回とほぼ同じ位置に、同じような絵が描かれている。
夜中にこっそり描いたのだろうか。
――どうせまたすぐ消されるのによくやるよ。あんな高い所に。
やはり夕方にはもう落描きはなかった。
――屋根の上じゃあ消すのも大変だろう。
Hさんもその時はまだそのくらいにしか考えなかった。


その更に数日後の朝、また同じ場所に同じ落描きを見たHさんだったが、その数分後に思わず自分の目を疑ったという。
また描いてあるな、悪戯にしても懲りずによくやるよ、と思いながらそこを通り過ぎたHさんは、数十メートル歩いてから何の気なしに振り向いてまた同じ屋根に目をやった。
……ない。
つい今しがた落描きを見て、それからほんの数分しか経っていないというのにもう屋根にはなにも描かれていない。
見ている場所が違うわけでも、光の加減で落描きが見えていないわけでもない。
念のため先程落描きを見た場所まで早足で戻ってみたが、やはり屋根の金属板には特に何の絵も見えない。
周りを歩いている他の生徒たちには妙な目で見られたものの、Hさんはそれどころではなかった。
こんな短時間で落描きが消せるはずがない。そもそも屋根に上がっている人の姿もない。
誰がどうやって消したというのか。
本当にあそこに落描きなんかあったのか。あった。ついさっき確かに見た。
しかしなぜそれが消えているのだろう。ひとりでに消えてしまったようにしか思えない。
もしかすると、今までもあれは誰かが消していたわけではなく、ひとりでに消えていたのだろうか。
あるいは消えるだけでなく、現れるところから誰かの手によらないものだったのか?


それ以降もHさんは同じ道を通学し続けたが、その落描きは時折思い出したように現れ、やはりすぐに消えてしまった。
携帯電話で写真に撮ろうとしたことも何度かあったが、携帯を取り出している間に消えてしまったり、画面を覗いた時にはもう見えなくなっていたりで、一度も撮影には成功しなかったという。