帰る夢

会社員のSさんが仕事帰りの電車で居眠りをした。
電車での居眠り自体はSさんにとって珍しいことではなかったが、その日は疲れが溜まっていたせいか妙に寝心地が悪く、変な夢を見た。
夢の中でSさんはふわふわと暗い空を飛んでいる。すると眼下に灯りが見えた。
下りていくとそれはSさんの家だ。いつものように玄関を開けて入っていくと、廊下の先にあるリビングから妻と二人の子供の楽しそうな声が聞こえる。
ただいま、と声をかけてリビングのドアを開いたが、そこにあったのは見慣れた家族の姿ではなかった。
塗り潰したように黒い、人の形をした何かが手足を振り回しながらリビングを狂ったように走り回っている。
うわっ、と驚いた拍子に目が覚めた。
奇妙に生々しい感触のある夢だった。黒い何かが走り回っている姿は目が覚めてからもはっきりと思い出せる。
それからすぐに家の最寄り駅に付いたので電車を下りたSさんだったが、ふと気付くと携帯電話に妻からの着信が入っている。着信時刻はほんの数分前だ。
改札を出てから妻の携帯にかけると、すぐに出た。妻は酷く心配そうな声で言う。
――大丈夫? 何か悪いこととかなかった?
そう言われてもSさんは疲れているくらいで他に変わったことはない。
急にどうした、と聞き返すと妻はひとまず安心した様子で、後で話すから気をつけて帰ってきてという。


帰宅後に妻から聞かされた経緯はこうだった。
妻が子供たちと一緒にリビングでテレビを見ていると、玄関が開く音に続いてただいまという声が聞こえた。
それからリビングに向かって廊下を歩いてくる音が近づいてくる。
妻はいつものようにSさんが帰ってきたものと思い、リビングのドアが開いたところでお帰りなさいと声をかけた。
しかしドアが開いたところに立っていたのはSさんではなく、背広だけだった。
間違いなくSさんが普段着ている背広だが、襟の上に顔がなく、袖から手も出ていない。
誰も着ていない背広が人の形をして立っている。まるで透明なSさんがそれを着ているかのように。
えっ何これ、とそちらへ足を踏み出そうとした瞬間、背広はふっと跡形もなく消えた。
リビングのドアは開いたままだったが、玄関に行ってみると施錠されていてSさんの靴もない。
まさかこれはSさんの身に何かあったのでは、と心配になった妻は電話をかけたのだという。


Sさんには電車の中で見た夢と妻の話が無関係とは思えなかった。帰宅する夢を見ていたのとほぼ同じ時刻に妻がSさんの帰宅した音を聞いている。偶然の一致としては出来すぎで、何か良くないことの兆しのようにも思えた。
心配する妻の勧めもあって、Sさんは有給休暇を取って健康診断を受けた。
その結果小さな腫瘍が見つかり、早めに治療できたことで大事にはならずに済んだという。