案山子

Hさんが結婚して間もない頃の話というから、二十年近く前のこと。
その日も仕事を終えてからまっすぐ帰ってくると、車をアパートの駐車場に駐めた。
車から降りたところで煙草を切らしていることに気が付き、歩いて五分くらいの所にある自動販売機に向かった。
煙草を買って、ついでにその場で一本取り出して仕事帰りの一服を楽しんでいると、視界の端に妙なものが映った。
自動販売機の正面は道路を挟んで金網のフェンスが続いていて、その向こう側は少し下がって小さな川になっている。
川の反対側は急斜面の土手になっており、その上には林がある。
その土手の中ほどに、銀色の棒か何かがまっすぐ立っていた。
それまで、そんな所にそんなものがあった記憶がない。
よく見てみると、長さは二メートルくらいで、そのてっぺんに白っぽい頭がついている。
つるっとした頭はマネキンかなにかのもののように見えたので、Hさんはそれを案山子か何かだと思ったという。
しかし案山子だとしても、近くに田畑があるわけでもないし、ただの土手の中腹に誰がなんの目的で立てたのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かんだ時、その案山子がスーッと平行移動した。
棒が全く傾くことなく、何の抵抗もないような動きで、一旦横に動いてからそのまま土手を滑り上がっていったという。
それが土手の上の林に消えるまでほんの数秒の出来事だった。
呆気にとられたHさんが我に返ったとき、あることに気がついた。
もう日は暮れていて、街灯の近くでなければ見通しはきかない。
川向こうの土手には街灯などなく、こちら側の明かりが僅かに照らしているだけである。
しかし、あの案山子ははっきり姿が見えた。
改めて思い返してみると、全体がぼんやり光っていたのだということに思い至った。
どう考えても、案山子などではなかった。
見たものを半ば信じられない気持ちでアパートに帰ると、出迎えた奥さんが目を丸くした。
「ねえ、随分日焼けしてない?」
Hさんが鏡を見ると、確かに顔が真っ赤になっている。
その日の仕事は内勤で、日焼けなどするはずがなかった。
あの銀色の何かのせいとしか思えなかったという。