ヴァレンタイン異伝

2月14日はいわゆる聖人の日、聖ヴァレンタインの日である。ご存知のように本邦ではこの記念日は異性に贈り物をする習慣として定着しており、食料品店や百貨店ではチョコレートがここぞとばかりに陳列される。商業イベントとしても重要であることは言を俟たない。
しかしながらヴァレンタイン、あるいはウァレンティヌスと呼ばれる聖人の生涯については、記念日の知名度に反して驚くほど知られていない。一般的にはむしろチョコレートを贈る習慣こそが主体くらいに考えられており、聖人については単なる名目となっているのが実情であろう。
しかしこれは彼について知られていないというより、記録の乏しさゆえに明らかでない部分が多い、と言ったほうが正確でもあろう。その実在すら疑う説もあり、ゆえにカトリック教会ではこの人物の記念日を定めていないのである。総本山であるローマでさえその様子であるから、キリスト教の盛んでない日本では尚更であるのも無理はない。
そこで本稿では、ヴァレンタインの人物像についていささかなりとも紹介してみようと思う。


この人物について主に記述されているのは13世紀のジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ヴォラギネによる『レゲンダ・アウレア(黄金伝説)』第42章である。ここには3世紀にローマの司教だったヴァレンタインが、ローマ皇帝の禁令に背いて兵士を結婚させ、斬首に処せられたということが記されている。一般的にはヴァレンタインの言行についてはこの記述が参照されるが、しかし他にその生涯を記した文章が存在しないわけではない。
その書物は日本で発見されている。1600年前後に刊行されたキリシタン版の中に『ばれんちぬす上人の事』と題された一書がある。ローマ字日本語表記で、刊行年、筆者は記されていない。どういう経緯で印刷されたのかは明らかになっていないが、活字を他のキリシタン版と照合した結果から、間違いなくイエズス会印刷機で刷られたものであると考えられている。
『ばれんちぬす上人の事』の記述を見てみるとこれが聖ヴァレンタインの言行を記したものであることが分かるが、また一方で『レゲンダ・アウレア』の記述とは食い違う点が多いことも分かる。更に、記述の内容は『レゲンダ・アウレア』に比べ詳細で文章も長い。果たしてこの内容にどれほど信頼性、正統性があったかは不明であり、疑問視する声も大きい。また、キリシタン版の書物には聖人の伝承を取り上げたものとして『サントスの御作業のうち抜書』がある。なぜヴァレンタインという人物について他に一書をわざわざ設けたのか、そしてなぜそれを日本で印刷したのか、という点も全く不明である。
以上のように疑問の余地は多いものの、あまり知られていない人物についての記述としては貴重なものとも言える。よって以下では『ばれんちぬす上人の事』に記されているヴァレンタインの生涯について紹介したい。


ヴァレンタインは3世紀にローマ市民の子として生まれた。父親は真面目な職人で、母親も働き者だったという。しかしその母親があるとき、不義密通を理由として離縁される。幼いヴァレンタインは父親の元で育てられることになったが、その父親も程なくして疫病により帰らぬ人となった。孤児となったヴァレンタインは、遠縁に引き取られることとなる。この縁者はキリスト教徒だった。無論、当時のローマ帝国ではキリスト教は禁止されている。逆に言えば、そういった日陰者くらいしかヴァレンタインを引き取ろうという慈悲を示す人間がいなかったということでもあるのだろう。――こうした幼少期の複雑な事情がヴァレンタインの人格形成の上でいかに強い影響を及ぼしたかは、想像に難くない。
その後ヴァレンタインはキリスト教徒の下で育てられ、成人する頃には自身もひとかどのキリスト教徒になっていた。ここでいうキリスト教徒というのは現在で言うそれとはいささか意味するところが異なる。何しろ政府による禁令下であっても信仰を捨てていない者たちなのである。強大な文明国ローマにありながらその政府を尊ばず、神の他に何も恐れない。迫害により命を落とそうとも、むしろ殉教者として天国に行けるという確信があった。そうやって易々と死んで見せることは、迫害に対して抵抗して見せることよりも時として格段に強烈な抗議として作用したに違いない。ヴァレンタインもそういった強烈な信仰心の持ち主として成長したのである。
ヴァレンタインには信仰上の主張があった。それは「愛はすべてに優先する」というものであった。愛を重視するのがキリスト教の教義ではあるが、この考え方はいささか行き過ぎている。しかしヴァレンタインはそう固く信じていた。このように彼が考えるようになったのは彼自身の体験に起因する。先述したように彼の母親は不倫の末に離縁された。その後の彼の人生を考えると、このことは不運の始まりだったと言える。少年時代のヴァレンタインは己の不運から、実の母親を恨んだ。しかし彼はその後キリスト教徒となった。信仰者として確信を得てみると、母親に対してもまた違った感想が出てきたのである。
聖書にはこうある。

産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。

(創世記 1:28)

生殖は神に与えられた人類の神聖なる役目であり、愛はそこに至る道であるとヴァレンタインは考えていた。そうであるならば、夫婦という枠すら意味を失う。実際、聖書において兄の妻と子を為すように命じられる場面がある。

ユダは長男のエルにタマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。
「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を残しなさい。」

(創世記 38:6-8)

この考え方に基づけば、ヴァレンタインの母親の行いは何ら神に背くものではない。子をなすのに相手は重要ではない。重要なのは、その原理となる愛なのだ。
愛があれば姦通は罪ではない。ならば己は罪人の子ではなかった。この考えに至って、ヴァレンタインは初めて母の罪から解放されたのかもしれない。
又聖書に曰く、

愛は死のように強く
熱情は冥府のように酷(むご)い。
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできず
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝を差し出す人があれば
その人は必ず蔑まれる。

(雅歌 8:6-7)

愛は何よりも強い。必ず最後に愛は勝つ。ヴァレンタインにはそういう確信があった。
愛=引力。愛により引かれ合った男と女により人は産まれ、増える。母は決してヴァレンタインと父を捨てて他の男に走ったわけではない。愛が家族に優先しただけのことである。そう思えた。


このようなヴァレンタインの信念を試すような出来事が起きたのが、皇帝クラウディウス・ゴティクスの治世のことであった。軍人皇帝と呼ばれ市民の崇敬を集めたクラウディウスは異民族との戦争で多く勝利を挙げていた。戦には当然兵士の補充が必要となる。若い、主に独身の男性が次々に戦場に送られた。クラウディウス率いるローマ軍は勝利を重ねていたとはいえ、兵士の損耗率は決して低くはない。
戦地に赴く兵士に対して、ヴァレンタインは密かにこう勧めた。
「行く前に人としての務めを果たしてゆくのです」
そうして若い娘を宛がった。ヴァレンタインの「人としての務め」が何であるかは言うまでもない。この勧めに従った若者は、戦地でなぜか鬼神の如き働きを見せたという。しかしこれは同時に、父親のない子供を増やすことでもあった。父親である兵士が戦場から帰ってこなければ当然そうなる。しかしヴァレンタインは父親がいるかいないかということは瑣末なことだと考えていた。あるいは全く気にしていなかった。彼の考える「愛」に家族の枠は関係ないからである。
やがてヴァレンタインの行いは政府当局の知るところとなった。ヴァレンタインは皇帝の前に連行される。皇帝はすぐに行動を改め、改宗することを命じた。当然ながらヴァレンタインは従わない。彼は神の意思に忠実に従ったと確信していた。皇帝と言えどもそこに異議を差し挟むことは許せなかったのである。愛は生命を生み出すものであり、生命は宇宙を支えるものである。その営みを、たかだか異民族との戦くらいで滞らせることこそ、ヴァレンタインにとっては罪だった。
かくしてヴァレンタインは皇帝に逆らい、処刑されることとなった。コンスタンティヌス1世によるキリスト教の公認に先立つこと僅か40年であった。ローマのキリスト教徒は彼の死を悼み、その殉教日である2月14日には愛の歌を唄って手向けたという。

愛には愛で感じ合おうよ
恋の手触り消えないように

何度も言うよ 君は確かに
僕を愛してる


迷わずに 聖イエス 迷わずに


愛には愛で感じ合おうよ
恋の手触り消えないように

何度も言うよ 君は確かに
僕を愛してる

愛 ふるえる愛
それは 別れ唄
ひろう骨も 燃え尽きて
ぬれる肌も 土にかえる

これらの歌は程なくローマ政府により禁止されたが、信徒の間で密かに伝えられ、中世にヴァレンタインが聖人として評価されたときに正式に賛美歌として取り入れられた。現在でも広く唄われるこれらの歌の起源を知る者は多くない。


最初に述べたようにヴァレンタインの実在は確証を得ていないが、彼に対する信仰は現在でも各地に残されている。中でもイタリア南部にはヴァレンタインの祭礼を行う町が存在している。それを紹介して本稿を終わるとしよう。
その祭礼は毎年二月十四日に行われている。祭礼に先立って、町の独身男性の中からその年のヴァレンタイン役が選ばれる。彼により町のカップル達に祝福の花が手渡されることにより、幸せな結婚ができると信じられている。この町では新生児のおよそ60%が12月生まれであるという。