ザ・セイント・オブ・ハイランド

その頃わたしは軌道エレベータ協会に務めていて、主に施設の修復・保全を担当する部署にいた。
人類の叡智を集めて築かれた巨大な柱も、流石に築百二十年ともなるとあちこち経年劣化が目立つ。お蔭でわたしの部署は常に仕事に追われており、一年の大半を上層で過ごさざるを得なかった。
そんなわけでわたしは迷うことなく、半年振りに手に入れた休暇を地上でゆっくり過ごすことに決めたのだった。というより前々から「今度休みが取れたら下に降りよう」と決心していたのだ。
久しぶりに故郷に顔を出そうか、それともどこか旅行にでも行こうか。そんな楽しい迷い方をしながら、わたしはエレベータの二等客室に乗り込んだ。安いだけあって普段は大抵満席の二等だが、この時は時期外れを狙ったのが功を奏して乗客も疎ら、まずまず落ち着いた旅になりそうだった。走り回ったり泣き喚いたりしそうな小さい子供がいないのも幸運だった。
手荷物を収納して席に落ち着いてから何気なく室内を見渡すと、ふと目を引く人物がいた。風体が変わっているというのではないが、あまりエレベータの乗客としては見ない種類の人物だった。顔中に深い皺が幾つも刻まれた、東洋系の年老いた男性である。少なく見積もって七十代も半ばは過ぎているかに思えた。いくらエレベータ実用化から随分経つとはいえ、衛星と地上を行き来するのは身体に負担も大きい。従って高齢者の利用はあまり推奨されておらず、衛星港にて職務中でも老人の利用客は殆どお目にかかったことがなかった。それでも乗っているからには、彼には何かしらの事情があるのかもしれなかった。
それを詮索しようと思ったわけでは決してないのだけれど、わたしは彼に些か興味を抱いた。というのも彼の面持ちや雰囲気に何か非凡なもの――言うなれば神聖さ、あるいは敬虔さといったもの――を感じたからだった。その顔に刻まれた深い皺の一つ一つが、彼のこれまでの経験の数と深さを象徴しており、それがそのまま彼の纏った静謐な空気に繋がっているような気がした。
是非、彼と話をしてみたい。興味を抑えられず、ついにわたしは彼に話しかけてしまっていた。唐突に話しかけたわたしにも、彼はいやな顔一つせず、穏やかに応対してくれた。風貌だけでなく、飄々とした何気ない口ぶりからも、彼の人徳が窺い知れるように思えた。
聞けば彼は若い頃地球に降りて、それからずっと地上で暮らしているとのことだった。
「今回は、ご旅行ですか?」
そうわたしが尋ねると、彼は渋そうに微笑みを浮かべた。
「実は、シャトルに乗ろうとも考えていたのですが」
シャトルに、ですか」
思わずわたしも鸚鵡返しになる。シャトルに乗るという事は地球から出るということである。「宇宙の仕事は定年が早い」との言葉のように、宇宙空間においては体力と気力が高いレベルで要求される。彼のような高齢の人物にとって、宇宙の旅は軌道エレベータのそれより更にハードルが高い。
「ええ。やはり思い直しました。ずっと心に引っ掛かっていたことがあったのですが」
「解決なさったのですか?」
「いえ。解決はするはずもないのです。……それどころか、もうとっくに終わっていることなのですよ。ただ、私が忘れられないだけなのですよ。それだけのことなのだと、ようやく割り切れたところです」
やはり何か、彼のこの旅には事情がありそうだった。それについて尋ねてしまってよいものかどうか、わたしが言葉を返せずにいると、彼もそれを察したようで、微笑みながら続けた。
「……そうですね、これは今まで誰にも話さずにいたことなのですが――割り切ってしまうためにも、誰かに聞いて貰ったほうがよいのでしょう。たかが老人の昔話ですが、長旅のお慰みに、どうか聞いてやってくださいますか」
丁度、エレベータの発進時刻がやってきた。窓の外の景色が動き出すと、彼は穏やかに語り始めた。

                                                                      • -


私は若い頃、星間運搬の請負業をしていました。早い話が運び屋ですな。
宇宙船の資格があればすぐに始められる仕事でしたし、荷の積み下ろしは港で人を雇えば済むことでしたから、経営は私ひとりで十分成り立ちました。勿論一人ではあまり大きな船は動かせませんから、仕事一回の実入りはそれほど多くありませんでしたが、個人事業で身軽だったので数をこなせましたし、経費も抑えられたのでそれなりの稼ぎにはなっていました。それに、色んな星に行けるのも面白かった。忙しかったですが、それなりに満ち足りた生活ができていると感じていました。


そんなある日のことでした。私はアンドロメダ銀河の辺境で遭難しました。通常航路を航行中、計器が急に異常な値を示し、正常な操作ができなくなってしまったのです。
整備は万全の筈でした。磁気嵐の影響かとも疑いましたが、そんな予報は出ていなかったのです。原因は皆目わからないまま私の船は大きく航路を外れ、あやうく恒星の引力に捕まってしまうところでした。何とか手動で最寄の小惑星とのフライバイを繰り返し、体勢を立て直して近くの惑星へと不時着しました。
計器はずっと異常値を示したままで、無事に着陸できたのが奇跡のようなものでした。着陸してからも計器は狂ったままです。これが改善されない内に飛び立つのは危険でした。仮に磁気嵐の影響だとすれば、時間が経てば収まるはずです。機器の故障であれば、直す必要があります。どちらにせよ、少しの間その星に留まる必要がありました。
その星には安定した大気があり、人類が生身で生活できる環境が整っていました。もしやと思いデータベースを検索すると、その星はずっと前にテラフォーミングが進められ、開拓民が移住していたということがわかりました。
しかし、一般の航路からは随分離れた所にある星です。それはつまり物流が途絶えているということです。その理由もデータベースに載っていました。かつてその星では強力な伝染病が大流行し、治療法が確立されぬまま住人のおよそ四割が命を落としたというのです。残りの六割も、それ以上の被害を恐れて厳重な防疫の上、その星を放棄したということでした。
つまり、そこは捨てられた星だったために、航路から外されていたのでした。記録によれば、住人がその星を去ってから三十年以上が過ぎていました。
私は、船の外に出るべきかどうか迷いました。伝染病が克服されていない星に降りるのはあまりに危険です。しかし、外にはひとつ気になるものが見えていました。それが興味を引いたのです。
不時着したのはその星の夜側でした。明かりと言えば満天の星空くらいのものでしたが、ただ一つだけ――地上に光が見えるのです。船の窓からはっきりと、程近い山の中腹に何かが光っているのが見えていました。
あれは何なのだろうか――私はしばらく考えました。
記録によればこの星に残った人間はいないことになっている。しかし、密かに残った人がいたのかもしれない。それならば、事情を説明して助けを求めることもできるだろう。人が生活できているなら、伝染病の脅威も小さくなっているはずだ。
人が残っていなかったとしても、もしかしたら何かの施設がまだ稼動しているのかもしれない。それならば何か、役に立つ資材が残されているかもしれない。探索する価値はある。
あるいは――犯罪者が隠れ家にでもしている可能性もある。そうならば接触は避けたい所だが、誰かがあそこにいるならば様子を探ってみるのは悪い選択ではないはずだ。
そんな風に考えた私は、後から思えば大分無謀なことではありましたが、とにかくその光の元まで行ってみることにしました。防疫のために簡易宇宙服を着込み、武器も携帯しました。


不時着したのは山腹の緩やかな斜面になっている森の中で、宇宙服越しにも虫の声が伝わってきました。地球の昆虫を移殖したのかも知れません。殆ど真っ暗闇の中を、足元だけライトで照らしながら、ゆっくり進んでゆきました。辺りが見えないのと知らない場所であるのとで、歩いても歩いても光に近づかないような気がしました。
随分歩いた気がしましたが、恐らく実際には二キロくらいの道のりだったと思います。やっと大きく見えてきた光をよくみると、それはどうやら民家――のように見えました。それも日本風の伝統的な家屋です。この星に移住した人の中に、日本出身の人がいたのでしょうか。私も幼い頃は日本で過ごしたことがありましたから、意外なところで奇妙な懐かしさを感じてしまいました。それが、私の警戒心を薄れさせたところもあるでしょう。
灯りは、家屋の奥から漏れてきていました。人の姿は見えません。私は家の中を覗けないかと、庭に足を踏み入れました。忍び足で軒先まで進んだとき、足元に妙な感触がありました。柔らかいものが足首に纏わりつく感覚。暗がりで何だか得体の知れないものが絡み付いてきたものですから、私は思わず短く声を上げてしまいました。
よくよく見れば、足元にいたのは一匹の黒猫でした。ガラス玉のような目で見上げながら、わき腹を私の脚に擦りつけてきます。人懐っこい猫でした。ここの住人に飼われていた猫の子孫だったのでしょうか。先程までの緊張も忘れ、思わず私がその猫を抱き上げようとしゃがみこんだその時――目の前で引き戸が開きました。猫に気を取られているうちに、家の中から人が現れたのです。


咄嗟のことで動けなかった私を見下ろしていたのは、一人の若い女性でした。今でもあの姿は昨日のことのように思い出せます。暗がりにもはっきり浮かび上がる白い肌、整った顔立ち、緩く波打った艶やかな黒髪――そして何よりも印象的だったのは、伏目がちで潤んだような黒い瞳でした。そう、私が驚いたのは彼女が突然現れたせいばかりではなく、その美しさに目を奪われたためでもありました。
見上げたままの姿勢で固まっていた私に、彼女は言いました。
「こんばんは。こんな所に、ようこそおいでくださいました。何もないところでございますが、ごゆっくりなさってください」
幾分低い、かすれ気味の声でしたが私の耳には不思議に心地よく響きました。それを聞いて、私はようやく口を利くことができました。
「あなたは一体誰なんだ。この星に、人間は残っていないはずじゃあないのか」
「その説明はこれからさせていただきましょう。まずは、どうぞ中へお入りください。決して危害を加えたりはいたしません。随分久しぶりのお客様ですから、どうかお持て成しさせていただきたいのです」
言われるままに、私は立ち上がって戸口を潜りました。外見だけでなく、家の中も木造の日本家屋そのものでした。廊下を先に立って歩く後姿を見て、その時初めて彼女が和服を、キモノを着ているのに気が付きました。その家には実に似つかわしい装いでしたが、それだけにまるで自分が日本にいるような錯覚に陥って、強烈な違和感を覚えました。
彼女は私を一室に通しました。畳と障子の部屋で、やはり日本風の造りです。
「そちらはお脱ぎになっても大丈夫ですよ。ウイルスはもういません」
その言葉で私は宇宙服を着たままであることに今更ながら気付きました。少し迷ったものの、私に危害を加えるつもりならばこんな回りくどい事はしないだろうと考え、宇宙服を脱ぐことにしました。ヘルメットを取った途端、外で鳴く虫の声が一段と大きく聞こえました。それと、仄かに伝わってくる森の匂い。夏の匂いだと思いました。
女性は私が脱いだ宇宙服を丁寧に畳むと、私に向かい合って座り、深々と頭を下げました。
「先程、わたくしが何者なのかお尋ねになりましたね。わたくしは、この星で造られたアンドロイドなのです。わたくしを作ったお方は、流行り病で亡くなられました。この家はそのお方の住んでおられたものです。身寄りのない方でしたので、それ以来わたくしがここに残っているのです」
なるほどと思いました。身寄りのない人物が造ったアンドロイドだったから、住人達がこの星を引き上げるときにも引き取り手がいなかったのでしょう。あるいは、緊急にこの星から引き上げていったのでしょうから、人間以外のものを乗せるほど移民船に余裕がなかったのかもしれません。彼女は続けました。
「流行り病のウイルスは心配なさらないでください。ずっとこのあたりには人間が立ち寄っていませんから、繁殖も拡散もできなかったはずです。この家の中も消毒してあります」
「ずっと、独りだったの?」私は尋ねました。
彼女は目を伏せて頷きました。何だか、妙に人間臭い仕草だと思いました。
他の場所で私がそれまで見たことがあったアンドロイドは、もっと表情や仕草が単純明快で、裏表の感じられない存在でした。しかし彼女は、何だか口調や仕草のそこかしこに陰を感じさせる所があるのです。造られたときからずっとそうなのか、それとも、独りきりの暮らしの中で次第にそういう個性を形作っていったのか。
私は何だか後者のような気がしました。根拠もない勝手な思い込みではありましたが。きっと、寂しそうな彼女の雰囲気に同情していた部分があったのでしょう。私も星から星に移動するときはずっと独りでしたから。
私はこの星に不時着し、この家の明かりにたどり着くまでの経緯を説明しました。彼女は頷きながら私の話を聞いてくれました。
船が直るまではいくらでも滞在してくれて構わない。彼女はそう言ってくれました。私の錯覚だったかもしれませんが、突然の来訪を喜んでくれているようにも感じられました。
その晩は、持参した携帯食と彼女が沸かしてくれたお湯で簡単な食事を済ませると、休むことにしました。驚いたのは、彼女が風呂を用意してくれたことです。三十年人が使わなかったはずの浴室でしたが、彼女が整備していたとみえて、何の問題もなく入ることができました。船での入浴は専らシャワーでしたから、久しぶりに湯船に浸かることができて私はすっかりいい気分になりました。湯から上がると浴衣が用意されていましたし、部屋に戻ると布団が敷いてありました。至れり尽くせりです。
不時着の緊張感と暗い山道を歩いたことで、私は疲れきっていました。彼女に礼も言わず、布団に入ってすぐに眠り込んでしまったのです。
どれだけ時間が経ったのか、私は布団に何かが潜りこんでくるのを感じて目を覚ましました。障子の外も部屋の中もまだ真っ暗でした。私の腕に、柔らかいかたまりがのしかかってきました。寝ぼけ眼のままそれを手探りしてみれば、一匹の猫でした。この家に着いた時、脚に纏わりついてきた黒猫を思い出しました。暗くて見えませんが、同じ猫だと思いました。指先でくすぐるように撫でると、猫も甘えるように身を擦りつけてきます。その温もりと重みを心地よく感じながら、再び私は目を閉じました。


翌朝目覚めたときには猫はいなくなっていて、外はいつのまにか嵐でした。昨晩の星空が嘘のようで、真っ黒な雲が激しい雨風を伴って辺りを押し包んでいました。これでは船にだって戻るのは簡単ではありません。
私は、とりあえず雨が治まるまで滞在させてくれと彼女に頼みました。彼女は、好きなだけいてくれて構わない、と言います。
その答えに、何だか無性に嬉しくなった自分に気がつきました。一晩宿を借りただけで、私は何だか離れ難いものを感じていたのでした。居心地がよかったのです。
それに、彼女にも色々聞いてみたいことがありました。出発できるようになるまで留まらなければならない身としては、できるだけその星について知っておきたかったのです。星外との交信も定かならぬ状況で、船のデータベースにも情報に限りがあります。その星に三十年以上暮らす彼女から、できるだけ情報を聞き出しておく必要がありました。
彼女は私からの質問に丁寧に答え、その星の様々なデータを数多く提供してくれました。そうやって得たデータを携帯端末に入力しているうちに日が暮れてきました。
その星の一日はおよそ二十時間。地球基準からするとかなり早く夜になる気がしました。夕方には雨は上がっていましたが、流石に暗くなってきてしまったし、大雨で地面も緩んでいる。そんなことを言い訳にして、もう一晩泊めてくれるよう頼みました。再び彼女は快諾してくれました。
その日の夕食は、彼女が用意してくれました。森で収穫してきた山菜や木の実を茹でたり炒めたりしただけの素朴な料理でしたが、航行中は保存食だけの食生活でしたから、作りたての料理というだけで私にとってはご馳走でした。
その日も前夜と同じように、彼女が沸かしてくれた風呂に入ってから床に着きました。


ふと目を覚ましたとき、障子の外はかすかに明るくなっていました。もう少し寝ていようと思ったとき、枕元に誰かが座っているのに気がつきました。一遍に眠気が覚めましたが、薄明かりの中でよく見れば、紛れもなく彼女です。昨日であった時と同じ、どこか寂しげな面持ちで私をじっと見つめています。昨日の夜、布団にもぐりこんできた猫を不意に思い出しました。
何か言おうと思いましたが、声は出ませんでした。寝起きだったからかもしれませんし、急なことに驚いたからかもしれません。
彼女がぽつりと言いました。
「ごめんなさい」
なぜ謝るのだろうか。疑問に思った私が見つめ返すと、彼女は続けました。
「あなたの船をここに引き寄せたのは――わたくしなのです。この星を去っていった人々が残していった機械を使い、近くを通る船をひとつここまで誘導したのです」
彼女がやったと聞かされても、不思議と腹は立ちませんでした。ただ、電子戦の装置を使えばそういうこともできるかもしれない、と思いました。私の船は中古で買った旧式でしたし、私自身も電子戦の詳しい知識は持っていませんでしたから。
「なぜそんなことを」今度は私も声を出すことができました。私は起き上がり、彼女に向き合って座りました。
「――わたくしは、もうすぐ寿命なのです。有機AIが耐用年数を過ぎています。わたくしは、もうすぐ壊れる。それを、誰かに見ていて欲しいと――そう考えてしまったのです。
この星の公転で十九周期、わたくしは独りで過ごしてきました。それを今まで、何とも思った事はありませんでした。でも、AIがこの頃誤作動を起こすようになってしまったのです。最期のときには独りでは嫌だと、そんな考えばかりが浮かんでしまうのです」
彼女の顔は泣き出しそうに見えました。いや、涙を流していなかっただけで本当に泣いていたのかも知れません。
「もう、装置は止めました。あなたの船は、もう飛べるはずです。どうぞ、ご出発ください。本当にご迷惑を――おかけしました」
アンドロイドが、一体こんな表情をするだろうかと思いました。それはまるで、寂しさにじっと耐えようとする子供のような顔でした。彼女にそんな表情をして欲しくないと、私はその時心の底から思いました。
しかし何と声を掛けていいか判らない。わからないまま、私は手を伸ばしました。頬に触れると、少し冷たいながらも、確かな温もりと柔らかさが感じられます。これが本当にアンドロイドの体だろうかと意外でした。そして、頬に触れた私の手に彼女の手が重なりました。冷えてはいましたが、しなやかで柔らかく、頼りない指でした。
私はその指に自分の指を絡めると、そのまま彼女を引き寄せました。華奢なその体からは、柑橘類のような香りが仄かに漂いました。それから――布団に倒れこむと、無言のまま絡み合いました。お互いの存在を相手に刻み込むような、そんな行為でした。無我夢中で、むしろ苦痛になるほどに、互いを求め合いました。
そうして何度目かの波が過ぎた頃、私は障子に朝日が射していることに気がつきました。もうすっかり夜が明けていました。
「しばらくは、ここにいるよ」私は言いました。彼女は夢見るようなぼんやりとした眼差しで、私を見上げていました。


それからの一日は、何もせずに過ごしました。船にも戻りませんでした。ただ彼女と向かい合って座っていたり、並んでぼんやり庭を眺めたりしていました。そうしていると時々黒猫が膝の上に乗りに来ました。そうして昨日と同じような食事をし、一人で布団に入って眠りました。
そして夜中、襖が開く気配で目が覚めました。彼女は部屋に入ると襖を閉め、昨晩と同じように私の枕元に座り込みました。私が彼女を見上げたまま黙っていると、彼女が口を開きました。
「ごめんなさい」
もういいんだ。気にしていない。私がそう言おうとすると、彼女が続けました。
「あなたの船をここに引き寄せたのは――わたくしなのです。この星を去っていった人々が残していった機械を使い、近くを通る船をひとつここまで誘導したのです」
それは――昨晩と同じ言葉でした。
「――わたくしは、もうすぐ寿命なのです。有機AIが耐用年数を過ぎています。わたくしは、もうすぐ壊れる。それを、誰かに見ていて欲しいと――そう考えてしまったのです。……」
昨晩聞いたのと全く同じ言葉を彼女は繰り返しました。私は、彼女は不安なのだと思いました。壊れるのが、死ぬのが怖いから、昨日のように私を求めているのだと。
それで私も昨晩と同じように彼女を引き寄せ、昨晩と同じように彼女を抱きました。ただ、前日より優しく扱うように心がけました。
空が白んできた頃に、彼女は部屋を出て行きました。


次の晩も、彼女は私の寝床に現れました。
「ごめんなさい」
彼女はまた、同じ言葉を繰り返しました。まるで、同じ夜だけを繰り返しているかのように。
私もまた、前夜と同じように彼女を愛しました。
そして次の夜も。
その次の夜も。


夜だけが毎日、型に嵌めたように同じことを繰り返して一週間が過ぎ――勘の悪い私もようやく気付いたのです。
初めて共に過ごしたあの夜。あれが彼女の最期だったことに。


翌朝、天候が安定していることを確かめた私は、その家を後にしました。
外に出て戸口を閉めたとき、あの黒猫が一声鳴きました。
それだけでした。
船に戻ったのは一週間ぶりでしたが、彼女が毎晩言っていた通り、船の計器は問題なく作動するようになっていました。予備のブースターを使い大気圏を脱出した私は、一度だけ彼女の家の方向を振り返りました。
今夜も彼女は私のいたあの部屋で、同じ言葉を繰り返すのだろうか。明日も。明後日も。ずっと。


その後、航路に復帰した私はまっすぐ地球に戻り、運び屋を廃業しました。それ以来一度も、宇宙には上がっていません。あれからもう五十年は経ちます。
それでも彼女の事は、ずっと頭の片隅から離れませんでした。
彼女と過ごしたあの家のこと。
彼女と過ごしたあの夜のこと。
地球に戻ってからの人生の中でも、あそこまで鮮やかな記憶はありません。
私もそろそろ、人生の終わりが間近に感じられるようになってきました。そうなってみると、あの時の彼女の気持ちがよく分かるような気がするのです。独りきりで誰にも知られないまま死ぬのはあまりにも悲しい。そんな、胸を掻き毟られるような焦りの感覚があるのです。
そう考えると、無性に彼女が懐かしくなります。もうひと目会いたいと――歳甲斐もなく、そんな衝動に駆られてしまうのです。
矢も盾もたまらず、家族にも内緒で軌道エレベータに乗って、衛星港まで行ったところで――思い留まりました。彼女はもう、死んでいるのですから。今更行って、どうしようというのでしょう。それならなぜ、あのままあそこに留まらなかったのか。今の感傷は、未練でしかないのです。
だから、この思い出はこのまま墓場に持ってゆこうと思って、引き返してきたのですよ。



(了)