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ここに一人の死にかけた男がいる。


この世の中に聖人というものが実在するならば、彼もその一人であったと言えるかもしれない。彼はこれまでの人生で、本気で人を憎んだり、呪ったりということがなかった。
勿論彼も生身の人間である以上、怒りや憎しみという負の感情は持ち合わせていた。人間が他者に憎しみを抱くのは概して不幸な時である。人の精神は弱いがゆえに、不満の捌け口を他者に求める。
彼もまた客観的には不幸な人生を送ってきた。両親を早くに亡くした。幼い頃からの友人には裏切られ、多額の負債を押し付けられた。生涯を誓ったはずの妻からは、簡単に見捨てられた。誰も彼を助けようという者は現れなかった。世の中には少なくない類の話ではあるが、一般的に言って彼は不幸だったと言えるだろう。
しかし、彼は他者を憎んだりはしなかった。どんなことがあっても、反省や研鑽の種にこそしても、決して不幸の責任を他人に求めようとはしなかった。
どんな時でも他者を許すことができるのが聖人ならば、彼こそ聖人であると言えるだろう。


そして今、彼は虫の息になっている。
不慮の事故で、看取る者もない。間もなく彼は息を引き取る。
死の直前、彼は生まれて初めて他者を憎むことになる。
事故を起こした者をではない。
彼を裏切った友人でもない。
彼を見捨てた妻でもない。
それらを含んだ全てを。
この世のあらゆるものを激しく憎むのである。
そして意識が消え去るまでの数秒間、彼は声にならない強烈な呪詛を吐く。これまでの反動なのか、その呪いは滴るほどに暗い。
それはこの場にいつまでも染み付いて消えない。
見ることも触ることもできないが、ずっと消えない。




呼吸が弱くなってきた。
彼が全てを憎むまで、あと十秒。



あと五秒。


三秒。
二。
一。