五十六/ 蔵の中

大学院で近世文学を専攻していたUさんは、ある時三重県の山中にある旧家へ資料を見せてもらいに行ったことがある。
母屋で幾つか貴重な資料を見せてもらい、それについて御当主に色々話を伺ったところ、話が弾んで随分気に入られた。そのお蔭で、土蔵にあるというもっと色々な古い資料を見せてもらえることになった。
土蔵は母屋から裏の藪を抜けた林の中にあった。この林も敷地の一部らしい。御当主は土蔵を開ける前に、Uさんに向かって言った。
「本は好きなだけ見てもらって構わんけど、それ以外にはあんまり触らんといたほうがええよ」
その物言いに僅かに引っかかりを感じたが、Uさんはすぐに土蔵の中へ入っていった。御当主は外で一服するようで一緒に入っては来なかった。
一隅に並べられた長櫃の中に古い書物が何冊も入っていて、片っ端から眼を通しているうちに一時間以上過ぎていた。一息つこうと周囲を見回すと、傍らの木箱の中から長い毛がぞろりとはみ出していた。黒くて長い毛で、髪の毛のように見える。
箱の中に日本人形でも入っていて、その髪の毛が蓋からはみ出してしまっているのだろうか。そう思ったUさんは、何気なくその髪の毛を掬い上げた。
その瞬間に箱の中から「ううぅーっ」という、くぐもった女性の呻き声が聞こえてきて、ずるっと髪の毛が箱の中に引っ込んだ。Uさんが血相を変えて外にとび出ると、それを見た御当主が少し笑って「何を触りました? 」と聞いてくる。見たままを伝えると「なるほど、髪の毛。そうですか」と言ってしきりに頷いているばかりで、特に説明はなかった。
すっかり肝を潰したUさんは、びくびくしながら本を元通りに片付けると急いでその家を後にしたという。