巾着

Kさんは高校卒業まで大阪で暮らしていた。三つ年上の姉がいて、小学校にも一緒に通った。
そうして姉と並んで家に帰る途中に商店街があって、端の方に理髪店と肉屋が並んでいる。その境目でお爺さんが二人、道端に机と椅子を出してよく将棋を打っていた。そしてそれを間近で立って見ているお婆さんもいた。
このお婆さんがいささか奇妙な存在だった。
髪はきれいに切り揃えたおかっぱ、顔も首もしわだらけで、口は巾着のようにすぼまっているのだがそういうところが気になるのではなかった。
年がら年中浴衣を着ているのだが、上半身がすっかりはだけて丸出しなのだ。
竹のように細い腕。肋骨の浮いた胸にしなびた瓜のような乳房が垂れ下がっている。
そんな姿で、ものも言わずにじっとお爺さんたちの将棋を見ている。いや、顔がしわだらけで目が開いているのか閉じているのかわからないから、将棋を見ているかどうかも判然とししない。
お爺さんたちが和やかに将棋を打っているその傍で、無言でじっと立っている。ただその巾着のような口がしきりに動いている。
初めてこのお婆さんをみたときにはKさんはまだ小学一年生で、変な人だとは思ったものの大して気にも留めなかった。しかし見かける回数を重ねるにつれて、次第に疑問を持つようになっていった。
まずKさんがこのお婆さんを見かけるのは、姉と一緒に学校から帰ってくるときに限られていた。一人で帰ってきたり、友達と一緒で姉とは別行動だったりするとお婆さんを見ない。しかしどういうわけか、姉と一緒だと必ず同じ位置にお婆さんがいる。
また、このお婆さんのことを周囲の大人も子供も誰も知らないようだった。お母さんやお父さんに聞いても心当たりがないようだし、商店街あたりに住んでいる同級生に訊ねても知らないという。
姉は一緒に見ているのだが、あまりこのお婆さんについて話したがらない。Kさんがあのお婆さん変だよ、と言うと姉はしっ、と口の前に指を立てた。世の中にはいろんな人がいるんやからそんなふうに言ったら駄目。


姉が中学生になってからは一緒に帰ることもなくなったので、Kさんが四年生になってからはお婆さんを見かけることもすっかりなくなった。
毎日のように将棋を指していたお爺さんたちもいつの間にか見かけなくなり、肉屋はKさんが高校生のときに閉店した。
高校を卒業してからKさんは東京の専門学校に進学し、神奈川で就職した。結婚後も神奈川に住んでいる。
小学生の頃以来、あのお婆さんのことはすっかり忘れていた。
それを思い出したのはつい最近のことだった。小学生の娘がこんなことを言う。
帰ってくる途中に変なお婆さんいた。しわくちゃで、上半身だけ着物脱いでるの。
その途端に小学生の頃の記憶がKさんの脳裏に蘇った。
Kさんは近所の住人に訊ねてみたが、それらしきお婆さんを知っている人は誰もいなかった。娘がお婆さんを見かけたという地点に行ってみてもそれらしき姿はない。
自分が子供の頃に見たお婆さんと同じものなのだろうか。
娘はその後もたびたびそのお婆さんを見ているという。

神社の土塀

よく晴れた初夏の昼下がり、Eさんが友人との待ち合わせで公園にいた。
公園の隣に神社があり、境界は長い土塀になっている。土塀に沿うようにベンチが置かれていて、Eさんはそこに腰掛けて友人が来るのを待っていた。
スマホの画面を眺めながら時間を潰していたが、ふっと手元が暗くなった。雲が出てきたのかと思って上を見上げたところで誰かと目が合った。
覆いかぶさるように、真上に顔がある。Eさんの背後から知らない人が覗き込んでいる。
ひっ、と息を呑みながら弾かれるようにベンチから立ち上がり、数歩駆け出してから振り返った。
ベンチの周りには誰の姿もない。
周囲を見ても誰もいない。
荒い息をつきながら立ち止まった。今の誰?
そもそもベンチは神社の塀にぴったり背をつけて置かれている。Eさんはそこに座っていたのだから、背後に誰かが立つスペースはない。
それではあの顔はどこから出ていたというのだろう。Eさんからは頭部しか見えていなかったので首から下がどうなっていたのかはわからない。
位置関係で考えると、塀から首が突き出していたか、あるいは首だけが空中に浮いていたのではなかったか。
Eさんはびくびくしながら公園を出て最寄りのコンビニに入り、スマホで友人に待ち合わせ場所変更のメッセージを送信した。


後から思い返してみると、至近距離ではっきり見たはずなのに、上から覗き込んできた顔がどんなだったかよく思い出せないとEさんはいう。唯一はっきり記憶しているのは、まん丸に見開いた両目だけだという。

トシヒロ

中学校の体育の授業中のこと。
グラウンドでサッカーをしている最中、生徒のひとりが校舎を指差した。
あそこ、誰かいる。
近くの生徒たちも視線を向けると、屋上に人の姿がある。屋上に突き出した塔屋の上に、制服姿の男子生徒の上半身が見えている。こちらをじっと見ているようだ。
あれ、トシヒロじゃん。うん、そうだな。
トシヒロというのは同じクラスの男子生徒だ。その日は学校を休んでいたのでグラウンドにはいない。
あいつあんなところで何してるんだろう、と眺めていたが、誰からともなくこんな言葉が漏れた。

 

なんかちょっとでかくね?

 

言われてみれば確かにトシヒロの姿が妙に大きい。屋上のすぐ下の教室の窓に比べると、上半身だけで窓二枚分以上はある。離れたグラウンドから顔がはっきりわかるのも、その大きさのせいだった。
明らかに普通の人間より大きい。下手な合成写真のようだ。
それに気づく頃にはグラウンドにいた生徒みんなが屋上を見上げていた。
サッカーの試合がすっかり止まってしまったのでお前達なにをよそ見してるんだ、と体育の先生が叱りつけたが、生徒が指差す方を見て口をぽかんと開けた。
なんだありゃ、誰かのイタズラか。お前達は試合続けててくれ。ちょっと見てくる。
先生はそう言うと校舎に向かって駆け出した。先生が通用口に姿を消すのとほとんど同時に、屋上のトシヒロはスッと見えなくなった。
下に引っ込んだというわけでもなく、ただ急に見えなくなったというような消え方だった。
数分して屋上に体育の先生の姿が現れたが、見回しても特におかしなものが見当たらなかったようだった。


翌日登校してきたトシヒロはいつも通りの大きさだった。
質問攻めにあったが本人は何も知らないようで、怪訝な顔をするばかりだった。昨日学校を休んだのは葬式のためで、学校に現れるような暇はなかったという。
その後しばらくの間、生徒たちはグラウンドにいるときに屋上のほうを気にするようになった。

元気なお菓子

Nさんが五歳の娘を連れて買い物に行った。
スーパーのお菓子売り場に近づくにつれて娘はそわそわし始める。スーパーに行ったときはひとつだけ娘の選んだお菓子を買ってあげることになっているからだ。
選んできていいよ、と言うと娘は小走りでお菓子の棚に向かう。
目移りする様子で棚の前をウロウロしていた娘だったが、ふと立ち止まるとNさんを呼んだ。
ママ、元気なお菓子がいる。
いや元気なお菓子ってなによ、と笑いながら近寄ると、娘の指差す先にはチョコレート菓子がある。
その箱がひとつ、小刻みに飛び跳ねるように動いている。えっ、何これ?
中に虫でも入っているのではないか。気味が悪い。
しかし娘は一層目を輝かせて、これにするという。娘が手に取ると、箱はおとなしくなった。
それを受け取ったNさんは全体を確かめてみたが、一度開けたような形跡や虫が入りそうな穴などはない。
耳元で軽く振ってみても、中で何かが動くような様子はない。しかしあれだけはっきり動いていたものを選ぶのも気が進まない。
普通お菓子は動かないでしょ、これは変だから他のにしよう、と提案しても娘はこれがいいと言い張る。
仕方無しにNさんはそれを買って帰った。
なにか危ない生き物が入っていたら困るので、帰宅してから庭で、Nさん自身がお菓子を開封することにした。
娘が期待の眼差しで見守る中、ミシン目に沿って箱を開ける。
――特に変わったことは何もなかった。
中に小動物などはおらず、個包装のお菓子が詰まっているだけ。全部取り出してみたものの、お菓子にも箱にも不審なところはない。店頭であんな動きをしていたのに、不審なところが見つからないのも逆に不審だ。
とりあえずお菓子を持って家に入ったNさんは、箱は捨てて皿の上にお菓子を載せた。
ご飯の前だから一つだけね、と言って娘に渡す。
娘のてのひらで、お菓子がカエルのように跳ねて床に落ちた。その途端に残りのお菓子もバササッと音を立てて、皿から元気に飛び出して散らばった。
ママ今の! すごいすごい!
娘は飛び跳ねて喜んでいるが、Nさんは呆然とするばかりだった。


それからそのお菓子はどうしたんですか? そう尋ねると、Nさんはニヤリと笑って答えた。
食べたよ。普通のお菓子だった。お腹も壊さなかったし。

川女

Tさんが大学生のとき、初めて彼女の部屋に泊まった夜のこと。
ふと目を覚ますとまだ真っ暗で、うっすら見える時計は午前四時だ。
もう一眠りしようと目を閉じたが、そこでアパートの玄関ドアが開く音が聞こえた。
誰かが部屋に上がってくる。目を開くと女がひとり部屋に入ってきた。
咄嗟に起き上がろうとして、体に全く力が入らないことに気がついた。
並んで寝ている彼女に声をかけようとしたが、声も出ない。首も回らないから彼女に顔を向けることもできない。
入ってきた女はそのまま近寄ってきて、ベッドの脇でTさんを見下ろしてくる。その無表情な顔が目が覚めるほどの美人だ。
しかしその女から強烈に生臭いにおいが漂ってくる。まるで汚れた川の水のような嫌なにおいで、河原に放置された魚の死骸を彷彿させる。息が詰まるほどの悪臭である。
女は黙ったまま屈んでTさんに顔を近づけ、ぼそぼそ呟いた。しかし聞き取れない。

女が屈んだ拍子に更に悪臭が強くなって、思わずTさんは咳き込んだ。
その途端にふっと体が軽くなって動けるようになった。慌てて身を起こすとあの女はどこにもいない。
横では彼女が穏やかに眠っている。ベッドから降りて玄関を確認しに行ったが、鍵はしっかりかかっている。
あの生臭さもない。じゃああれは夢だったのかと安心してまた彼女の隣で横になった。


そんなことがあって以来、Tさんは友人たちから妙なことを聞かれるようになった。
この前一緒にいた女の人って誰?
友人がTさんを街で見かけたときに、一緒に歩くきれいな女の人がいたのだという。時には腕を組んでもいたという。Tさんの付き合っている彼女とは全くの別人だったらしい。
Tさんには心当たりがまるでない。彼女を含め、腕を組んで歩いたことなどない。しかし友人たちは見間違いではないと断言する。
そんな女は知らないとTさんは何度も説明したものの、どうもそのことが原因で彼女から浮気を疑われるようになり、結局いくらも経たないうちにその彼女とは別れてしまった。

スマホ爺

高校生のKさんのクラスで、女子生徒数人が集まって会話していた。
朝の始業三〇分前くらいのことで、教室内にはだんだん生徒が多くなってくる時間だ。
女子生徒たちはいつものように大声で話しているので会話の内容が教室中に筒抜けだった。Kさんはそのとき自分の席で自習していたが、嫌でも彼女たちの声が耳に入ってくる。
女子生徒のひとりが言う。

 

うちさあ、最近スマホやばいんだけど。

 

彼女の話では、スマートフォンに時折知らない相手からメッセージが入るのだという。それだけなら単なるフィッシング詐欺かなにかとして無視することもできるが、そのメッセージが来るたびに他にも変なことが起こる。

 

壁紙にさあ、おじいちゃんが出てくるの。知らないおじいちゃん。

 

何それ、と訝しむ他の女子たちに、これなんだけどと言って女子生徒はスマートフォンを見せた。
えっ、怖っ、などという声が上がり、思わずKさんもそちらを見た。席が離れているのでスマートフォンの画面は見えない。
それからすぐに担任教師がやってきて、話していた女子たちはぱっと散って自分たちの席についた。
Kさんはスマートフォンの画面にどんなものが見えるのかその日ずっと気になっていたが、その女子は普段ほとんど話さない相手だ。見せてくれと頼むのもためらわれて、確かめることはできなかった。

 

そのスマートフォンの話をしていた女子生徒が、翌日から学校に来なくなった。急病で入院したという。
病名や病状はクラスに知らされないまま、一週間経っても彼女は来なかった。
まさかあのスマホの件が関係してるのかな。Kさんはクラスの友達にそう話を振った。もちろん真剣にそう考えていたわけではなく、単なる与太話だ。
しかし友達はそのスマートフォンの話を覚えていなかった。他のクラスメイトに聞いても同様だった。
彼女たちがあれだけ大きな声で会話していたのに、誰もそれに注意を払っていなかったのだろうか。

それどころか、学校に来なくなる前の朝に彼女たちが会話していたことさえ誰も覚えていない。まるでKさんにしか聞こえていなかったかのようだった。


Kさんの学年が卒業するまでその女子生徒は学校に戻ってこなかったという。

南国の風


学生のEさんが夢を見た。
周りに木が等間隔に並んでいる。畑だろうか。大きな葉が八方に広がる、南国の植物だ。
照りつける日差しは強く、肌が焼けてしまうなと思ったが、木々の間を抜ける風が汗を乾かしてくれて心地よい。
さらさらと葉が風に揺れる音を聞きながら木々の間を進むと、向こうから誰かが歩いてきた。
両手に何か大きなものを抱えている。何を持っているんだろうと目を凝らしたところで朝だった。
はっきりした感覚が残る夢だった。じりじりと肌が焼ける暑さや、爽やかに抜ける風、木々の葉擦れの音。
たった今まで実際にそこにいたかのような実感があった。
しかし全く知らない場所だった。北国生まれで東京の大学に通うEさんは、あんな南国に行ったことはない。
テレビか本か何かで見た光景を夢で思い出したのだろうか。
夢とはいえ初めての土地に行った新鮮な気持ちを味わえて、少し浮かれた気分になりながら家を出た。
ところが一歩踏み出したところでガスの元栓を閉めたかどうか気になった。
確認しようと閉めたばかりのドアに手をかけたところで、ドサッと音がした。ドアの内側からだ。
何かが落ちたような鈍い響き。部屋の中で何かが崩れたのか。
まったくもう、とドアを開けた。アパートの間取りは玄関からすぐキッチンになっている。
キッチンの床に潰れた一本のバナナがあった。まだ青い未熟な果実だ。
何かで押し潰されたように中身がはみ出している。
出かけるところだったので慌てて片付けた。潰れたバナナからは青臭さがぷんと立ち昇っていた。
その臭いに顔をしかめながら、Eさんは疑問を抱いた。
Eさんはバナナなど買った覚えはないし、家の中にそんなものは置いていない。
そもそもこんな青いバナナが売っているのも見た覚えがない。
見回しても家の中で他に変わったことがない。どこからバナナが出てきたのか。なぜ潰れていたのか。
ティッシュを何枚も使って床を拭き、それからガスの元栓を確認したがこれはしっかり閉めてあった。
急いで外に出て、再びドアに鍵をかけたときにふと思い出した。
夢の光景だ。
南国の木々の向こうから歩いてきた誰かが抱えていたもの、あれは大きな房になったバナナではなかったか。


奇妙なことに、夜になって帰ってきた時、ゴミ袋には潰れたバナナも、それを拭いて捨てたティッシュも見当たらなかったという。