毛皮

Tさんは小学五年生のときに親の仕事の都合で引越し、それに伴って転校することになった。
新しい小学校は新居から歩いて十五分くらいかかるところだった。
転校後ひと月ほど経ってその辺りの地理にも詳しくなってくると、近道にも見当がついてきた。
途中にある竹林の中を突っ切ると五分は短縮できる。
竹林には特に柵や立入禁止の看板があるわけでもなく、人がいるところも見たことがない。さほど鬱蒼としてはおらず、足を踏み入れても迷うようなこともなさそうだ。
そこである朝、念の為少し早めに家を出てから竹林に入ってみた。
竹林の中は小さな丘になっており、少し登ってからすぐ下って、反対側の道に出た。間違いなく近道だ。
その日の帰りからTさんは毎回この竹林を通ることにした。
そうして一週間ほど経った日の朝、それまで同様に竹林に入ったTさんだったが、下り坂に差し掛かったところで妙なものにぶつかった。
進もうとすると左肩に何かが当たる。竹ではない。なにも見えない空間なのに何かに当たっている感触がある。
手を伸ばすともじゃもじゃした毛深いものに触った。毛皮の壁があるようだった。
なんだこれ? と撫で回していると、怒鳴り声が聞こえた。
おいっ! そこで何してる!
行く先の道の方から知らないおじさんが叫んでいる。逃げようとしたが、追いつかれて道まで引きずり出されてしまった。
ここは気軽に入っちゃいけないんだ、古墳だからね。おじさんは案外落ち着いた様子で言う。もっと怒られると思ったTさんは拍子抜けだった。
しかしここが古墳? ただの竹林ではなかったのか。
だから悪戯したり遊び場所にしたらダメだよ。そう言うおじさんに、Tさんは先程の見えない毛皮について尋ねてみた。
さあ、古墳のヌシじゃないかな。おじさんは笑って言った。
入っていけないのなら柵や看板を立てたりすればいいのに、とTさんは腑に落ちなかったが、その後もその竹林で人の姿を見たことは一度もなかった。
そこが入ってはいけない場所だというのは、付近の住民がみな知っていることらしかった。
だったら引越してきてすぐに教えてくれたらよかったのに、とTさんは不満に思ったという。

くの字

Fさんは出産を控えて夫の実家に滞在することになった。
当時Fさんの両親はすでに故人で、夫の母親を頼ることになったのだ。
夫の実家は古い農家で、広い庭と古く大きい家があるものの、義父はずっと前に亡くなっていて義母が一人で暮らしていた。
夫は仕事で忙しく、その大きい家に日中Fさんと義母のふたりで過ごした。
よくある嫁姑問題のようなものはほとんどなかった。嫌味を言われたり喧嘩をしたりということは全くなく、義母は優しく接してくれたという。
そんなある日、台所で買い置きの食料がごっそり減るという事件があった。冷蔵庫に入れていなかった野菜や果物、パンが半分以上消えている。
義母から何か知らないかと尋ねられたがFさんにも心当たりがない。流石に一人で食べられるような量でもないので、義母もFさんを疑っているわけではないようだが、そうだとすれば犯人は他にいることになる。夫も知らないという。
野生の動物の仕業にしては食い荒らした様子がない。女二人の家に他の者が入ってきて勝手に食料を取っていったのだとすれば由々しき事態だ。
用心のため、日中でも戸締まりをよく確認して過ごすことになった。
それから一週間ほど経った頃、Fさんは夜中に喉がかわいて目が覚めた。水を飲もうと台所に向かうと何かを引きずるような音がする。
台所に明かりは点いていない。
先週のことを思い出したFさんはまた犯人が来たのかと思い、慌てて護身用にバットを持ってきた。
息を潜めて恐る恐る台所を覗くと、食料を置いてあるあたりに何かいる。
灰色のかたまりで、大きい。タヌキやキツネどころではない。クマはこの辺りにはいないと聞いている。
変な形をしている。真ん中あたりで「く」の字に折れ曲がり、その形のままふらふら左右に揺れている。
何なのあれ。
人のようにも見えないし、他の動物とも思えない。Fさんは好奇心に負けて台所の明かりのスイッチを入れた。
ぱっと蛍光灯が点いたが、灰色の物体は何だかよくわからない。相変わらず折れ曲がったまま揺れている。
Fさんはバットを握り直し、台所に足を踏み入れたが、その途端に灰色の物体は壁に染み込むように見えなくなってしまった。
また食料がなくなってしまったのだろうかと確認すると、買ってあったはずのニンジンとキャベツが消えていた。
あとは菓子パンもいくつか中身がなくなっており、袋だけが残されている。奇妙なことに、菓子パンの袋はどこにも開けた形跡がなく、中身だけがきれいに消えていた。


その後もいくつかその家で奇妙なことが続けて起きたが、Fさんが出産してからはパッタリ止んだという。

鼻唄

Wさんが彼女の家の近くで待ち合わせをしたある朝のこと。
道端のベンチに腰を下ろして彼女が来るのを待っていたところ、近くから誰かの鼻唄が聞こえる。
男の声だ。しかし誰の声なのか、周囲に目をやっても姿が見えない。
声はすぐ近くから聞こえているのに人の姿がないのだ。隠れられるところもない。
姿のないままに、鼻唄はゆっくり通り過ぎていく。聞き覚えのある曲にも思えたが、調子が安定しないのでなんの曲だかよくわからない。
鼻唄が遠ざかり聞こえなくなってから少し後にようやく彼女が来た。
さっきこんなことがあったんだけど、と話すと彼女はああ、そうかと納得する素振りだ。
ここって小学生の通学路だからと彼女は言う。それがどう関係あるのか。
近所に元教師のおじいさんが住んでて、見守り活動っていうのかな、小学生が集団で登校するのに毎朝一緒について行ってたの。
おじいさんが小学校から戻ってくるのがちょうど今ぐらいの時間で、ひとりで鼻唄を歌いながら歩いてくるのをよく見たんだ。
でももうかなりのお歳で、施設に入ったとかで、少し前から姿を見なくなってたのよね。まだご存命だとは思うんだけど。


いや、じゃああの鼻唄は?
そうWさんが問うと彼女は真顔で答えた。子供好きなおじいさんだし、声だけでも抜け出してきたんじゃない?

空家の探検

Kさんが中学二年生の時のこと。
偶然、同じ町内に空家らしき古い家を見つけた。二階建ての平凡な家屋だが門に板が打ち付けてあり、なんだか物々しい雰囲気がある。
自宅から徒歩で十五分くらいのところだが、通学路とは反対方向で普段あまり行かないあたりだったからそれまで存在を知らなかった。
家族に何か知っているか聞いてみたところ、以前ある一家が住んでいたが彼らが引越して以来何年も空家のままだという。引越した理由というのが、まだ幼い子どもが大怪我だか重病だかで長期入院することになり、家を売って病院の近くに移ったということらしい。
Kさんは母親から、あんた勝手に入って悪戯したりするんじゃないよ、と釘を差されたが禁じられれば行きたくなる年頃だ。
早速部活が休みの日の放課後、一人で空家に向かった。
門には相変わらず板が打ち付けてあったが、そこに続く板塀はところどころ傷んでおり、隙間が空いている。初めて見たときにここからなら入れそうだと思ったことも、入ろうとした理由の一つだった。
ところが家の方は戸締まりが厳重で、侵入できそうなところがひとつもない。これにはがっかりした。
玄関は当然として、裏の勝手口も固く施錠されていた。窓に至っては施錠された上にカーテンも隙間なく閉まっている。中が覗けそうなところすらない。
家の他には荒れて雑草が蔓延る庭しかなく、物置もない。仕方なく家の周りを一周しながら庭を見て回ったが、特に興味を引くようなものがない。
早々に飽きたので人に見られないうちに塀の破れ目から抜け出し、コンビニに寄って雑誌を立ち読みしてから帰った。

 


翌日、学校で友人がにやにやしながら話しかけてきた。
昨日お前コンビニにいただろ。一緒にいたのって誰?
そう言われても心当たりがない。コンビニではひとりで立ち読みしてそのままひとりで帰った。誰かと会った覚えはない。
そう返事すると友人はそんなはずはないという。
いや一緒にいたじゃん。隣にいて仲良さそうに肩組んでたし。
肩を? 誰と? 自分が?
それ、相手はどんなやつだったと訊くと、高校生くらいの姉ちゃんだよ、隠すなよと友人はいう。
なんと言われようと、昨日は空家から家までずっと一人のはずだった。

信号待ち

Mさんが出張で遅くなった帰り道、途中のトンネルのすぐ手前で信号が赤になった。
朝早くに家を出たのでもう今日はすぐ帰って寝たい。そんな気分だからか、信号が変わるのがいやに遅く感じられる。
いつもは通らない道なので道順をあれこれ考えながら信号が青になるのを待ったが、一向に変わらない。
まさか押しボタン式なのか、と支柱を見たり、感応式のセンサー範囲に車が入っていないのか、と上を見たりしたがそういったものは見当たらない。
夜中の山道で対向車も後続車もいない。赤信号でも無視して進んじまうか、と改めて周囲を見回したところですぐ傍に花が見えた。
斜め前方の電柱の根本に、ガラスの花瓶に立てられた花がある。街灯に照らされてそこだけ浮かび上がって見える。
ここで事故があったらしい。
なんとなく信号無視を咎められた気がしてばつが悪い。しかし他に誰もいないので信号無視しても事故など起こりようがない。
信号はまだ赤だ。
構うか、とブレーキを緩めそうになったところで、花瓶が倒れた。
風はほとんどない。誰も花瓶に近づいていない。花瓶がひとりでに倒れた。
車の中からはわからないような何かの振動で倒れたのかもしれないが、どうも気味が悪い。
信号はまだ赤だ。
いくらなんでも長すぎないだろうか。もう五分以上は信号待ちしているような気がする。
信号がおかしいのだろうか。
勝手に倒れる花瓶といい変わらない赤信号といい、あまりこの場に長居したくない。
やはり進もう、ともう一度前後左右を確認して、違和感があった。
花瓶が倒れていない。最初に見たときと同じように花瓶が花ごと立っている。
振動か何かで倒れることはあっても、ひとりでに立ち上がるはずがない。
周囲に人の姿はない。Mさんが視線を外したほんの僅かな間に誰かが花瓶を起こしたということはありえない。
さっき倒れたのは見間違いだったのか?
訝るMさんの視線の先で、花瓶が倒れた。もちろん誰も近づいていないし、風もない。
先程の光景がそっくり繰り返されている。
背筋に嫌な汗が吹き出した。
もしもう一度、花瓶が起き上がったら。そしてそれがまたひとりでに倒れたら。
Mさんはすぐに車をバックさせてから方向転換して、その信号を避けて帰ったという。

発熱

高校のサッカー部でこういうことがあったという。
練習中に部員が一人、突然崩れ落ちるように倒れた。
呼吸が荒く熱が高い。意識はあるが顔が真っ赤で酷く苦しそうだ。
すぐ保健室に担ぎ込んでベッドに寝かせた。救急車を呼ぶほどではなさそうだが家に連絡してすぐ迎えに来てもらうことになった。
熱を出した部員と付き添いのマネージャー、保健の先生の三人が保健室で迎えが来るのを待っていると、どこからか足音が聞こえる。
ぴちゃぴちゃと床を裸足で歩き回る足音だ。
廊下を裸足で歩いても戸を閉めた保健室の中までは聞こえないはずで、実際その音はすぐ傍から聞こえる。
しかし歩いている本人の姿が見えない。誰も立っていないのに足音だけが保健室の中をうろついている。
マネージャーと保健の先生は怪訝な顔を見合わせた。何かいるのか?
保健の先生が足音に向かって言った。
保健室の中では静かにしなさい。無闇に歩き回らない。
足音がぴたりと止まった。先生の言葉が通じたのだろうか。マネージャーが息を呑んだ。
そこへ戸が開いて別の先生がやってきた。迎えが来たという。
声をかけられてベッドの部員が体を起こした。なぜか妙にすっきりした顔をしている。
どういうわけか、熱はすっかり引いていた。
本人の話では、ベッドに横になっている間に夢を見たという。
知らない場所にいて、周囲が真っ白。帰ろうとして歩き回っていると誰かに叱られた。歩き回るなという声がする。
誰かいるのか、と見回したが誰もいない。しかし何だか体が軽くなったように思えて、ふと気がつくと目が覚めていたという。

裸足坂

台風の近づく雨の日のこと。
Eさんが彼女の家に向かう途中、上り坂にさしかかった。
風も出てきたので傘を煽られないように気をつけながら坂を登っていった。
視線を路面に落としながら歩いていると、突然視界に裸足が現れた。道の脇に裸足の誰かが立っている。
目だけ動かしてそちらを見ると、薄汚れた着物の男だ。
時代劇みたいだ、とEさんは思った。雨はだんだん強くなるというのに、男は傘もささずに佇んでいる。
変な人だな、と関わり合いにならないようにEさんは視線を外してそのまま通り過ぎようとした。
すると妙なことになった。視界の端から裸足が消えないのだ。
また視線を上げると着物の男がすぐそこに立っている。視線を落として坂を登ると、視界の端に裸足がずっと見えている。
歩いて付いてくるのではない。足を揃えたまま、音もなくスーッと滑るようについてくる。
これはまずい。
なんだかわからないが普通ではない。彼女の家まで付いてこられても困る。
Eさんは踵を返すと早足で坂を下りた。振り返らずに最寄りのコンビニに駆け込み、雑誌を見るふりをしながらガラスの外を窺った。着物の男の姿はない。ここまでは付いてこないようだ。
念の為にあの坂を通らず、かなり遠回りして彼女の家に行った。
後で知ったところでは、その夜の嵐で坂の途中にあった古木が倒れたという。
あの裸足の男がその木だったのかなと、かなり古い木だったみたいで、だから時代劇みたいな服装だったのかなって。Eさんはそう語った。