逃げ出した少女

Rさんの持っているアパートの話だという。
エレベーターに幽霊が出るという噂が立った。
ドアが開くとエレベーターの中に女の子がいる。中学生くらいの年格好だが、ボサボサ髪で下着姿、身体のあちこちにアザや擦り傷がある。内股に血が伝っていた、と語った人もいた。
目が合った瞬間に少女は必死の形相でこちらに一歩踏み出し、そのまま消える。
これを住民や宅配業者が何人も見たのだという。
噂は女の子の正体にも触れている。
このアパートが建つ十年以上前、同じ土地に別のアパートが建っていた。その古い方のアパートで事件があった。
そこの住人だった男が隣町から女の子を誘拐し、半年ほど自室に監禁していた。女の子は男の隙をついて部屋から脱出したが、監禁生活と男による暴行で身体が弱っており、逃げ出す途中に階段から転落して亡くなった。
現在エレベーターに出るのはその女の子だというのだ。
しかしRさんが知っている限り、その土地でそんな事件が起きた事実はなかった。現在のアパートが建つ前は十年前もそれより前もずっと畑だった。
畑を営んでいた人が亡くなり、税の問題で相続が放棄されたのでRさんの親がそこを買い取り、アパートを建てたのである。
同じ土地どころか、市内や近隣の街でも類似の事件は見当たらなかった。だから噂で語られる少女の正体は事実無根の出鱈目だ。
しかし実際、エレベーターの中でそうした少女を見た、という人物は複数存在しており、Rさんは困惑した。Rさん自身もこのエレベーターにはよく乗るが、一度もそんなものを見た覚えがない。
はっきりした苦情が出るようならお祓いでもするべきかと思ったが、特に文句を言ってくる人はおらず、Rさんは拍子抜けした。とりあえずそのエレベーターはそのまま使われている。
最近その少女が出たという話は聞かないが、今でも出るかどうかは、Rさんもわからないという。
Rさんは言う。
もしかしたら今も出てるけどみんな黙ってるだけかも。

歩道橋の下

Kさんが車で通勤するルートの途中に、歩道橋の連続する区間がある。
ほんの数百メートルの間に三つの歩道橋が道路をまたいでいて、その下をKさんは毎日朝晩にくぐる。
田舎ではあるが幹線道路なので車の往来が多く、すぐ近くに小中学校もあって通学路にもなっているから歩道橋が整備されたらしい。


ある朝ここを通りかかると、歩道橋の下に何かが浮いているのが見える。
風に吹かれてゆらゆら揺れているが、ゴミか何かが引っかかっているのだろうか。
黒くて縦に細長い。歩道橋から紐かなにかで吊り下げられているようだ。
えっ、まさか首吊りじゃないだろうな。
ドキッとして一層目を凝らしたが、どうも人のようには見えない。
じゃああれは何なんだ、と訝しく思いながら歩道橋の下まで来た。すぐ下から見てもそれが何なのかわからない。
ただの真っ黒いかたまりだ。
訝しみながら通り過ぎた。それでもまだ今見たものが気になったので、次の歩道橋に差し掛かったときにバックミラーでちらりと後方の歩道橋を見た。
歩道橋は見えなかった。
そればかりではなく、リアガラスが全面真っ黒で何も見えない。
えっなんで、と後ろを振り向いたがガラスに変わったところはない。視線を前に戻したところでまた仰天した。
今度はフロントガラスの上半分が真っ黒になっている。外から何かで覆われているのか?
前が見えず、慌てて下から覗き込むように身をかがめつつブレーキを踏んだ。
直後にガラスの黒いものはふっと消えて、急に見通しがよくなった。急ブレーキを踏んだせいで後続車にクラクションを鳴らされた。あやうく事故になるところだったようだ。


歩道橋から吊り下がっていた黒いものと車のガラスを覆った黒いものが同じものかどうかはわからないが、それ以来Kさんはこの歩道橋の付近でスピードを落とすようになったという。

面談予定

学習塾で働いていた人の話。
その塾は県内に七つほど同じ系列の教室があり、当時その一つで教室長を務めていた。
教室長は他の講師同様に授業も行うこともあるが、それより授業の管理や保護者との連絡、他教室長との会議、新規入塾の案内や手続きといった仕事のほうが多かった。
だから電話をかけることも多く、電話の内容は必ず専用のノートに記録することにしていた。
あるときこのノートでここ数日のメモを確認していたところ、ひとつの記述が目に留まった。
「○月○○日13:00、面談」
思わず首をかしげた。保護者との面談予定をこのように書き込むことは普通にある。だが、誰との面談なのかが書かれていない。
うっかり書き忘れたのか。一体これは誰との面談予定だったか。
思い出せない。――というか、こんなことを書いた記憶がない。
しかしこの癖字は確かに自分の筆跡だ。このノートを使うのも自分だけ。自分で書いたことには違いないのだろう。
面談の予定はこのノートだけでなく、パソコン内の予定表にも入力している。そちらも確認してみた。
確かに同じ日付と時刻に面談の予定がある。だがこちらにも相手のことが載っていない。自分で入力したはずなのに、誰と面談するつもりでここに入力したのかが思い出せない。
一体自分は何を考えて面談予定を記録したのか、全く思い出せない。
相手がわからないから電話で確認するわけにもいかない。だがその時刻に面談が確かに入っているのならば、同じ時刻に他の予定を入れずに待っていればいい。
面談の目的がわからないのは難点だが、新規入塾、成績相談、進路相談、考えられる範囲で必要な資料を用意して当日を待った。
平日の十三時、生徒の中高生は学校に行っている時間帯だから面談の相手は保護者のはずだ。塾の授業も始まるのは夕方だから他の講師も来ておらず、教室長一人だった。
そして十三時になった。誰も来ない。
十分経っても十五分経っても誰も現れない。
すっぽかされたのか、それとも最初からそんな面談の予定はなかったのか。
三十分経っても来なかったら元から無かったことにしてしまおうか、などと考えていると電話が鳴った。
面談に遅れるという連絡だろうか。
そう期待しながらすぐに出たが誰の声も聞こえない。無言電話か。
切ろうとしたところでぽつりと声がした。
「ありがとうございました」
何が、と聞き返そうとするとすぐに通話が切れた。何の礼だ。悪戯電話か。
結局その後も面談の相手は来ず、念の為に十四時まで待ったが無駄だった。
あるいはあのメモに続きがあって、別のところに詳しい内容を書いていたのではなかったか。
そう思い至ったのであのメモの周辺を見返そうとノートを開いてみたが、そこで少し鳥肌が立った。
「○月○○日13:00、面談 済」
いつの間にか、自分の筆跡で赤く「済」の字が書き加えられている。
もちろん書いた覚えはない。
しかしまるで知らぬ間に誰かと自分が面談を済ませていたようではないか。先程の電話は悪戯でも間違いでもなく、そのことへの礼だったのか?
一体誰との面談だったのだろうか?

裾引き

Gさんの実家は香川の海辺にあり、家から徒歩五分のところにある堤防で幼い頃からよく釣りをした。
好きだから釣るというよりは、習慣のようにほとんど毎日堤防に行って釣り糸を垂らす。高校受験の前日にも釣っているところを学校の先生に見られて呆れられたこともあった。
しかし大学進学で大阪に出てきたGさんは海から少し離れた街に住んだせいで、しばらく釣りをしない日々が続いた。故郷を離れる前は少し不安だったのだが、自分でも意外なことに釣りをせずにいても落ち着いて過ごすことができており、なぜ実家にいる頃はあれほど釣りを続けていたのか不思議に思えるくらいだった。


大学に入って初めての夏休みにGさんは香川に帰省した。このとき大学の友人がひとり、一緒にやってきた。友人は大阪育ちで大学にも実家から通っており、Gさんの里帰りに旅行気分でついて来たのだ。
当初は友人を案内して観光でもするつもりだったのだが、実際に帰ってきてみるとどうにもまた釣りがしたくなってきた。大阪ではそんな気は全く起こらなかったのに、帰ってきて潮の香りを感じた途端にムズムズする。
そこで帰ってきた翌日の朝起きてすぐ、友人を連れて堤防に向かった。
他に釣り客の姿はない。いつもの場所に友人と並んで腰を下ろし、釣り糸を垂らした。
まだ眠そうな目をした友人とぽつぽつ言葉を交わしながらしばらくそこにいたが、釣れない。高校生の頃はもう少し手応えがあったような気がしたが、数ヶ月釣りをしないうちに勘が鈍ったのだろうか。
そんなことを考えていると、着ているTシャツの裾が後ろの何かに引っかかったような気がした。腕を回して探ったが、特に引っかかっているものはない。
後ろを見ても引っかかりそうなものがない。持ってきた釣り道具とバケツの他にはなにもない。
気のせいかと思いまた釣りを続けたGさんだが、また少しして裾が引っかかる感覚がある。
引っかかるというよりは、ツンツンと軽く下に引っ張られるような感じだ。まるで釣り針の餌を魚がつついているような弱い感触。
だがやはり後ろには何もない。友人がふざけて引っ張っているのかとも考えたが、友人は両手で釣り竿を持っていて、Gさんの方に手を伸ばした様子がない。
その後も何度か裾が引かれる感じがあったが、気にしないことにしてしばらく釣りを続けた。しかし全く釣れない。一時間ほどで切り上げて、帰って朝食にすることにした。
友人は釣りはあまり楽しくなかったのか、朝食の間もなんだかぼんやりした様子で、その翌日に釣りに誘っても今度は断られてしまった。仕方なく一人で行くと今度は裾が引かれることは一度もなく、更には勘が戻ってきたのか、以前のように順調に釣れた。


しばらく後になってから友人とこのときの話になった。
友人が真面目な顔で言う。あのときお前、後ろの方気にしてなかったか?
そう言われてGさんも思い出した。そういえばあの時の裾が引かれる感触はなんだったんだろう。
友人は続ける。
俺な、実は見とった。座ってた堤防のコンクリからな、手が出てた。小っさい手、赤ン坊みたいな丸い手ェや。
それがお前の裾をチョイっと引いて引っ込む。また少しすると手が出てくる。裾を引いて引っ込む。そんなのが釣りしとる間続いてたんや。
あのとき俺寝ぼけてるんかと思って何も言わんかったんやけど、後から考えるとやっぱり現実やったとしか思えんくてな。
何だったん、あれ? 心当たりあるんか?
友人は真剣な顔で聞くが、Gさんにも答えられなかった。


大学を出て大阪で就職したGさんは今でも帰省すると必ず釣りに行くというが、誰かと一緒には行かずに一人で釣ることにしているのだという。そして地元以外では全く釣りをしない。

いい感じ

東京で働くRさんが葬儀のため新潟に帰郷した。亡くなったのは一つ年下の従妹で、まだ三十歳になったばかりだった。
幼い頃から姉妹のように一緒に育てられ、高校まで同じ学校に通った。家族のような親友のような、お互い何でも言い合える関係だった。
ところが近年はすっかり疎遠になっていた。Rさんが東京の大学に進学し、そのまま東京で就職したのに対し、従妹は高校卒業後に地元の役所に就職、地元で結婚したので接点がなくなってしまったからだ。
だから従妹が亡くなったと聞かされたのは全く予想外のことだった。自殺だという。
遺書はなく、明確な理由は不明なものの、育児と家庭内不和で精神的にかなり不安定だったと葬儀の直前に噂で知った。
死にたくなるほどの悩みに気付いてあげることができなかったなんて。
Rさんはショックと無力感で、葬儀の間ずっとぼんやりしていた。棺の遺体を見ても、火葬場で遺骨を見ても、どうにも現実感がない。涙の一滴も出なかったことがまたショックだった。
葬儀が終わると精進落しにも参加せずにすぐ東京に向かい、その日のうちに竹ノ塚のアパートに着いた。
喪服は着替えたものの何をする気にもなれず、シャワーを浴びるどころか立っているのも億劫でベッドに座り込んだ。
このまま横になって朝まで寝てしまおうかと思ったとき、出し抜けにすぐ傍から声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと」
聞き慣れた従妹の声だ。間違えようもない。
首だけ回してそちらを見ると従妹がぺたりと床に座っている。妙に幼い。中学生くらいの年頃か。
だが紛れもない従妹の顔だ。
Rさんはこのとき感心したという。ああ幽霊って初めて見たけど、こんなにはっきり見えるものなのか。
透けているとか輪郭がぼやけているとかいうことは一切なく、まるで生きた人間のような存在感や生々しさがあったという。
従妹は無表情にRさんを見つめて言った。
「いい感じよね」
何が? と聞き返そうとして口を開いたときにはもう従妹の姿はなかった。室内を見回しても誰もいない。
いい感じってどういうことよ、全然よくないよ、と呼びかけたが静まり返った部屋に返事はなかった。

映る美容師

Wさんが行きつけの美容室に髪を切りに行った。
この店は入ってすぐの待合スペースに熱帯魚の入った水槽が置かれていて、髪を切っているときにも鏡越しにそれが見える。Wさんは別段魚が好きというわけでもないのだが、散髪中は鏡に映るこの水槽を何となく眺めるのがいつものことだった。
このときも髪を切られている最中に水槽を見ていたのだが、そのうちにふと気づいたことがあった。
水槽に美容師の姿が映っているのが見える。しかし、その本人がどこにいるのかがわからないのだ。
青いシャツを着てハサミを手にした男性美容師が熱心に作業する姿がはっきり水槽に映っている。だが店内を見ても、美容師たちは揃いのグレーのシャツを着ており、青い服を着ている人は誰もいない。顔は角度のせいで斜め後ろからしか見えないが、店内にいるどの美容師とも違うように思える。
映っているのが水槽だから青く見えるのかとも考えたが、他の人が水槽に映る姿と比べると色がはっきり違う。やはりあれは青い服を着ているようだ。
更に不可解なのは、髪を切っているような動きをしているのに、切られている人の姿が映っていないことだ。
見えない頭を相手にして髪を切っているように見える。まるでパントマイムだ。
あれは一体誰なのか。というより、何なのか。


そちらに気を取られているうちにWさんの散髪が終わった。
会計を済ませたときに何気ない態度で店員に聞いてみた。ここの美容師さんって青い服でお仕事してたことありましたっけ?
青ですか? ウチではなかったですね。
不思議そうな顔で返された。
その後もWさんはこの店を利用しているが、青い服の美容師を見たのはあの一度きりだったという。

タイムカプセル

Mさんが友人からこんな話を聞かされた。
友人は成人式で里帰りしたとき、かつて通った小学校を訪れた。六年生のときにクラス一同で埋めたタイムカプセルを掘り出すために、当時の同級生たちが集まったのだ。
目印が残っていたおかげでタイムカプセルはすぐに掘り当てられた。中も水浸しになっているようなこともなく、八年前に入れたままの品々が取り出せたので、歓声が上がった。
友人も自分が入れたものを見つけた。当時使っていた落書きノートだ。
昔から絵を描くのが好きだった。あの頃は休み時間のたびにこのノートに絵や漫画を描いていた。ゲームやアニメのキャラクター、自分で考えたロボット、その時描きたいものを好きなだけ描いた。その後進学するうちに、勉強や部活動で忙しくなってだんだん絵は描かなくなってしまったが。

このノートをどこへやったか忘れていたけど、そういえばタイムカプセルに入れたんだったか。
懐かしく思いながらノートをめくり、最後のページに辿り着いた。
そこには絵は描かれておらず、下の方に一行だけ鉛筆で文字が書かれている。

「かな子はやめとけ」

なんだこれは。こんなこと書いたかな。覚えがない。
しかしこの雑な筆跡は小学生の頃の自分の字に間違いない。他のページの字とも酷似している。
かな子というのは誰のことか。その名で思い当たるのは一人しかいない。二十歳現在に付き合っている彼女の名前だ。しかし知り合ったのは大学に入ってからで、小学生の当時に知っているはずがない。
小学生の頃には周囲にかな子という名前の人物がいた記憶はないから、これは実在の人物のことを指しているわけではないのか?
今は忘れてしまっただけで、当時好きだったゲームかアニメの登場人物の名前なのか? それにしてもやめとけという意味がわからない。
周りの元クラスメイトたちにも何人かにそのノートを見せてみたが、かな子という名前には誰にも心当たりがなかった。


釈然としないまま郷里を離れたが、それから一週間もしないうちに彼女の浮気が発覚した。友人が里帰りしている間、ずっと他の男と過ごしていたという。
それが原因ですぐに彼女とは別れた。
かな子はやめとけ、ってそういうことだったんかな。友人は暗い顔で言う。
単なる偶然の一致だろう、彼女の浮気がショックだったからなんでも怪しく思えるんだ、とMさんは笑って流した。
しかしそのノートを実際に見せてもらうと、絵で埋まったノートの最後のページだけ、ぽつんと一行「かな子はやめとけ」と強い筆圧で書かれている。
そもそもなぜ、このページだけ絵がなくて文字だけなのか。偶然の一致で片付けるには、どうも何かの意図を感じてしまう。
あるいは本当に未来のことがわかっていてこれを書いたのでは――。そう思わせるような何かがそこにはあったという。