十年ほど前、登山が趣味のNさんは夏休みに長野の燕岳に登った。
三泊四日の日程で北アルプスの自然を堪能し、帰ってきてから数日後にスマートフォンの録音を聞き返した。
山を歩いている間、休憩するたびに途中で見たものや歩いた感想などを記録として声で吹き込んでおいたのだ。
それを聞いていると山を歩いている最中の気持ちが蘇ってくるようで、また次の登山が楽しみになってくる。当時、山に行くときはいつもそうしていた。
ただこのときは、聞いているうちに気になることが出てきた。
自分の声以外に、別の声が一緒に入っているように聞こえるのだ。
初めは鳥の声か、あるいは風が鳴る音かと思っていたが、どうも次第にはっきり人の声に聞こえてくる。幼い女の子のような声だ。
しかし録音するときは恥ずかしいので近くに人がいないか確認していたし、山で子供に会った記憶もない。
他の人の声が入るはずがない。
囁くような、ひそひそ話をするような声で、しかもNさんの声に被さっているから初めは何を言っているのか聞き取れなかった。
しかし後の方になってくると次第にはっきり聞き取れるようになっていく。
「ふふっ、さーん」
「しー」
「ごー、ふふふ」
何やらぼそぼそした声の中に、そんなカウントが混じっているのが聞き取れた。何を数えているのか?
そして山で最後に録った音声でのこと。
Nさんの声が、もうすぐ山道も終わり、早く今日の宿に着きたい、と言った直後。
「着けるかなあ?」
からかうような声がはっきり聞こえ、そこで録音が終わっていた。
次に山に登るときから、Nさんは録音するのをやめて記録はメモ帳に書き込むことにしたという。