牛沼

Eさんの育った町には牛沼と呼ばれる沼がある。
幅三十メートル程度の小さな沼だが、一面が葦など背の高い植物で覆われていて水面が見渡せず、沼というよりは湿地のようなものらしい。
なぜそこが牛沼と呼ばれているかというと、牛の鳴き声が時折そこから聞こえてくるからだという。
その話を他所の人に言うとみな口を揃えて「それはウシガエルだろう」と答えるが、何度か実際にそれを聞いたことがあるEさんによるとウシガエルなどではなく明らかに牛の鳴き声なのだという。
子供の頃からEさんはなぜそこで牛の鳴き声がするのか不思議に思っていた。沼の中に牛が住んでいるはずはないし、沼の近所にも牛を飼っているところなどない。
何度か周りの大人にそれを質問したことがあったが、誰からもはっきりした答えは戻ってこなかったし、更には「子供だけであそこに近寄ったらいけない。あそこは底なし沼だから」と脅かすようなことを言われた。
葦が生えてるのに底なし沼のはずがないじゃないか、子供を騙そうとしているのだろうかとEさんは釈然としなかったが、行ってはいけないという言いつけを破って叱られるのも嫌なので子供だけで牛沼に近寄ろうとはしなかった。


Eさんが中学一年生の春、地区の夏祭りについての話し合いで公民館に人が集まった。この祭りには地区の子供も中学生になると準備から参加する。それでこの年からEさんも話し合いに同席していた。
話し合い自体は大人が主導するので中学生が口出しできるようなものではなく、Eさんを含め中学生たちは神妙に座って大人たちの話が終わるのを待っているだけだった。
この地区の公民館は牛沼のすぐ脇に建っていて、裏口を開くと金網越しにすぐ牛沼が見える。
夕方に話し合いが終わって公民館を出るまで、その日Eさんは牛沼について特に気にしていなかった。
だが久しぶりに牛沼のすぐそばまで来たので、ちょっと見に行きたい気分になって公民館の裏に回った。
すると金網のすぐ外に誰かが立っているのが見える。薄暗いので誰なのかはっきり見えないものの、両手で目の前の葦を握ってガサガサ揺らしている。
一体何をやっているんだろうと興味を持ってEさんは近づいていったが、ほんの数メートルの近くまで寄った時にその誰かはピタリと動きを止めた。
しかもそんなすぐ近くに立ってもその姿がよく見えない。決して明かりがないわけではないのに、人の形に真っ黒に塗りつぶしたように見えるだけで一体それがどういう顔や体をしているのか全くわからなかった。
その時、目の前の沼から大きく牛の声がひとつ響いた。
背筋が震えるような大きな声で、心なしか沼の葦が一斉に振動しているようにも見えた。
と、その声に驚いたように金網の向こうの人影が急にぐっとしゃがみこんだ。
……ように見えたのは一瞬で、実際には人の形が崩れてその場にボタボタと音を立てて落ちた。
えっ、とEさんが目を見張ると、崩れ落ちたものは真っ黒なヘドロだ。
確かに今、動いていたのに……?
Eさんは足早でそこを立ち去り、それ以来公民館の裏手には一度も行っていないという。