Eさんは右手の小指の感覚がほとんどない。動かそうと思えば左手の小指と同じように動かせないこともないが、感触も熱さ冷たさも、小指だけには全く感じられないのである。
少なくとも物心ついた時からずっとそうで、Eさんにとってはそれが当たり前のことだから、特別そのことに不便を感じたことはない。ただ一度、いつのまにか右手の小指を何かに引っ掛けたかどうかして血が出たことがあったのだが、滴るほど出血していたのに痛みがないためにしばらくそれに気が付かなかった。服が赤く染まっていたのを人に指摘されて初めて怪我に気がついた始末で、それ以来、右手の小指はできるだけ何かに触れないように曲げたまま生活しているという。
親に聞いてみても、物心つく前に指を怪我したとか障害が残るような病気にかかったとかいうことは特になかったというから、小指の感覚がないことについてはどうにも原因がわからない。病院で診てもらってもやはりはっきりしたことはわからなかった。
Eさんが大学生のとき、母方の祖母が亡くなった。その遺品を整理するために、Eさんは母と一緒に祖母が一人で暮らしていた家を訪れた。
二人で家の中にあるものを確認し、捨てるものと残すものを分別していったのだが、そうしているうちに天袋から古びた木の箱が出てきた。
開けてみると、中には写真がぎっしりつまっている。どれも白黒なあたり、かなり古いもののようだ。子供が並んで写っていたり、立派な屋敷を背景に撮られた紋付袴の大人たちの集合写真だったり、川に浮かぶ舟に乗った学生服の少年だったり、様々な情景がそこに残されている。
母も初めて見る写真ばかりで、写っているのが誰なのかもよくわからないという。
しばし二人で写真を一枚ずつ眺めていたが、ある一枚のところでめくる手が止まった。
寝ている赤ん坊を撮った写真だ。まだ生後間もない赤ん坊が白い布団に寝ている。
肩の辺りに挙げられたその右手の、小指のところにはっきりと――黒い☓印が書かれていた。写真の上に、黒いインクか何かで☓が書き込まれている。
小指をそこで切断するように。
Eさんは思わず自分の右手の小指に目をやった。もちろんそこには☓印などない。
その赤ん坊が誰なのか不明だが、少なくともEさんではない。
だが小指のところににはっきり書かれた☓と、Eさんの小指に感覚がないこととが、無関係ではないように思われて仕方がなかった。
もちろん、普通に考えれば写真に落書きがしてあったところでそれが現実の体に影響があるわけでもない。右手の小指だということが共通しているのも、単なる偶然の一致で説明がつく。だが、Eさんにはその写真が無性に気になった。
祖母の従妹がまだ健在だったので、天袋から見つかった写真についてそれとなく尋ねてみたところ、どうやらそれらは祖母が幼い頃に暮らしていた実家で撮られた写真ではないかということだった。祖母一家は関東大震災の時に経営していた工場が崩れてしまい、家を売ってその土地を離れたのだという。
しかし写真の赤ん坊が誰なのかは見当がつかないという。その頃のことが分かる親戚はもうみな亡くなってしまっている。
写真はその後、仏壇の抽匣に仕舞われているという。Eさんの小指は今でも感覚がない。