あとで読む九十九日目


覚書。
葬というものを考える。


「葬う」という行為は全世界で当然のこととして扱われている。これをしない民族は地球上に存在していないと言い切ってしまってもいいだろう。とすればこれは人類の習性と言えるかもしれない。
歴史、宗教、風土など色々な要素によってその形態は様々ではあるが、共通していることがある。それは、死者の遺体を生活圏から遠ざけるということである。土に埋めたり、焼却したり、山に棄てたり、鳥に食わせたりするのはつまるところ遠くにやってしまう、ということだ。これは当然のことで、遺体を濫りに放置すれば伝染病発生の恐れがある。尤も死骸を隠すというのはヒトだけではなく他の動物にも見られる行為で、猫は死期を悟ると姿を消すといい、また鯨や象は決まった場所で死を迎えるという。だから葬るという行為も人類が文化を獲得する以前から行われていた可能性は十分にある。
伝染病という即物的なもの以外にも、遺体を遠ざける理由は考えられる。それは社会的なものであって、遺体を遠ざけることで、その人物が社会構成から外れたということを確定するということである。人間は社会的動物であって、家族、町、国など様々な共同体に所属しながら生きている。死ぬという事はそのメンバーから外れるということだから、他の生きている者に向けて「死んだ」ということを宣言する必要がある。そうしなければ亡き後の共同体の再構成が滞ってしまい、社会が上手く回らなくなってしまう。つまりは死ぬという事は社会からいなくなる、ということであり、それをはっきりさせるために遺体を速やかに見えないところに追いやるのである*1


ここまでは葬儀というものは遺体を遠ざけることとして考えてきた。ならば遺体を遠ざけない葬儀というものは存在しないのか、という疑問が出てくる。
それは実はあって、日本では殯(もがり)と呼ばれている。流石に伝染病発生の心配はあるので遺体を隔離しないというわけではないのだが、近い所に置いておくのである。具体的に言うと、遺体を安置する場所(殯宮)を設け、白骨化するまでそこに放置する。しかる後に遺骨を埋葬或いは特別な場所に安置するというものである。白骨化するまでの過程は度々確認され、そうすることで死者との別れが確認される。
現代社会ではこういう風習は殆どなくなったが、古くは中国、朝鮮、日本などで行われていたとされる。沖縄でも伝統的な形式の葬儀はこれと同類のものである。儒教の儒というのも元はこういう儀式を担う専門の集団のことであるらしい。
この殯という行為はなかなか興味深い。人間は死というものを遠ざける傾向があるからだ。それは上に挙げた理由だけでなく、死というものが管理できないからである。
人間は管理をする生き物である。管理と言ってわかりにくければ計画と言おうか。家を建てるのも、街を造るのも、料理をするのも、仕事の段取りをつけるのも、つまるところ頭の中で考えたことを出力するということである。
しかし自然というものは人間が考えて造ったものではない。だから計画及び管理が難しい。従って人間が造ったもの、住居や都市、社会からは自然というものが可能な限り排除されてゆく。計画できないからである。問題はヒト自身の身体も自然の存在であるという点で、人間の意思に関係なくヒトは死ぬ。これは管理の外の現象である。死を何とかして管理しようというのが医学であったり遺伝子工学であったりするのだろうが、それもまだ死を完全に管理する所までは辿りついていない。管理できないから死もまた人間の造った仕組みから遠ざけられる。例えば街に遺体が放置されていたら大事になってしまう。死体は社会の表舞台には存在を許されない。
しかし、殯という風習はその限りではない。眼の届く所に遺体を安置し、その成行きを見届ける。管理できないことをそのまま受け入れようとする。これは管理できないことを排除しようとする方向とは正反対の考え方である。現代社会にこういう風習が少ないのも、近代というものが成立する過程で管理できるものしか許してこなかったのであれば当然だろう。

*1:逆に、例えば社会の中で影響力が強かったりして死後も存在を望まれるような人物は遺体を保存される。レーニンとか