知名

  • 人は誰しも死ぬ。例外なくいつか死ぬ。しかし人は社会的動物であり、常に他者との関わりの中で生きている。そのために人はその死後も、関わった相手の記憶の中にその存在のかけらを残す。あるいは、社会の中で果たした役割により、記録の中にその名を残す。本人の生命活動が止まった時が死には違いないが、その一方で、どこかにその人の記憶や記録が残る限り、社会の中でその人が完全に死んだとは言えないのではないか。仮にこれを知名の寿命と呼んでみる。
    • 生物としての寿命に個体差があるように、知名の寿命にも人によって差がある。他者の記憶にどれだけ残るかは、他者とどれだけ関わったか、その量や関係性に大きく左右される。どれだけ多くの人と関わったか。どれだけ社会の中で大きな役割を果たしたか。印象に残ったか。愛されたか。憎まれたか。これらはある程度までは数量化できるはずで、それによって知名の寿命も概算ができるのではないか。
    • また、知名の寿命は情報技術によっても大きく違いが出る。記録とその保存に大きなコストが掛かった古代においては社会のほんのごく一部の中心人物のみが記録の対象となるため、それら指導者層と一般民衆とでは知名の寿命にかなり大きな差があった。始皇帝の名は現代でも知られているのに対し、同時代の民衆はほとんど名をとどめていない。だが現在では、情報記録媒体の多様化と低コスト化によって膨大な量の記録が日々残され続けている。古代においては名前など残さなかったであろう一般庶民までもが、現代では電子の海のどこかにほんの僅かなりともその名を刻んでいる。知名の寿命は圧倒的に延びている。
      • まあ、いつか人類そのものが絶滅したら記録だけ残っていても意味ないんですがね。その時があらゆる人間にとって本当の死、と言えるのかもしれない。そう考えると、下手に名を残してしまえば最後、人類が滅びるまでは完全には死ねないとも言える。